景石城跡の見学を終え、山から下りて車を走らせた。
次なる目的地は、鳥取県八頭郡八頭町船岡殿にある真言宗の寺院、万照山多宝寺である。
多宝寺は、和銅三年(710年)に行基菩薩により開基されたと伝えられている。
創建時は、根本山万照寺という寺号であったという。
胎蔵界大日如来を本尊とし、阿弥陀如来と薬師如来を脇仏としている。
石段の上には、鐘楼門が備え付けられている。この鐘楼門に掛かる梵鐘は、康正三年(1457年)に地元の金屋で鋳られたものである。
銘文によると、因州小幡郷の緑御宮(現八頭町の東実取神社)のために鋳られたらしい。どういう由来でこの寺の梵鐘になったのかは分からない。
因幡では珍しい古梵鐘である。
鐘楼門を潜ると、本堂などが見えるが、そう広くない寺である。
万照寺は、天正九年(1581年)の秀吉の因幡攻めで灰燼に帰した。
その後寺は、慶長三年(1598年)に良識和尚により中興され、名称を多宝寺に改めた。
この辺りは、鎌倉時代から伊田氏という地頭が支配していた。伊田氏は、秀吉の因幡攻めの際に滅ぼされた。
多宝寺の本堂の裏には、宝篋印塔や五輪塔の残欠が集められた場所があった。
恐らくは伊田氏ゆかりの武士を供養するための石塔の残欠であろう。この地域のあちこちに散在していたものが、ここに集められたのだろう。
かつての土豪の存在を示すものが、このように打ち捨てられているのは寂しいことだ。
さて、多宝寺から南下し、八頭町橋本にある大江神社に行く。
大江神社の祭神は、大貴己命、天穂日命、三穂津姫命である。創立は不詳である。
大江神社は、六国史の一つ、「日本文徳天皇実録」に登場する国史現在社である。
「日本文徳天皇実録」によれば、大江神社は、仁寿元年(851年)に朝廷から従五位下の神階を授けられている。
ところでこの神社は、日本一の数の祭神が祀られていることで知られている。
先ほど挙げた三柱の神は、祭神の代表で、大江神社には実に61柱の祭神が祀られている。
出雲系の神々が主だが、高天原系の神々も祀られている。どういう由来でこれほど多くの神々が祀られることになったのかは分からない。
大江神社社殿は、貞観元年(859年)と延長五年(927年)に再建され、順徳天皇の御代(1211~1222年)に正一位大権現の神階を賜った。
当時因幡守となった大江広元の氏神として崇敬された。大江神社の名称は、ここから来ているのだろう。
この神社は、中世には伊田氏によって修復されている。嘉元三年(1305年)の銘のある棟札があるという。伊田氏が地頭をしていた時代のものだろう。
明治初年には、大江広元の子孫の大蔵省書記官大江卓が来社して横額を掲げた。
現在の社殿は、大正7年(1918年)に再建されたものである。
日本の寺社は、木造であるため、災害や兵火ですぐ失われるが、木造であるため再建も容易に行われる。
この辺りは、大江谷と呼ばれているが、寺社の由来を知れば、地域の領主のことや合戦の事、信仰のことを知ることが出来る。
ささやかな地方の寺社であっても、寺社はその地域の歴史をタイムカプセルのように現在に伝える貴重な存在である。