斎神社の参拝を終え、県道70号線を北上する。
養父市十二所の新宮山の山上にある伽藍、満福寺を訪れた。ここは、真言宗の寺院である。
満福寺山門の仁王像は、新しい像だが、彩色鮮やかで、なかなか迫力ある像だ。
山門を過ぎると参道の苔むした石段があり、途中石造地蔵像や宝篋印塔がまとめられた一角がある。
満福寺は、聖武天皇の天平年間(729~749年)に行基菩薩により開基された。
創建時に、一人の翁即ち新宮権現が現れた。新宮権現は、和歌山県新宮市の熊野速玉大社の祭神である。
新宮権現が寺院の守り神となり、それからこの山は新宮山と呼ばれるようになった。
そして、新宮山満福寺周辺は、熊野信仰の霊場になった。
熊野本宮に祀られた十二の権現を十二所権現というが、満福寺のある場所の地名も十二所という。
姫路市街にも十二所線という道路があるが、十二所という地名があるところは、かつて熊野権現が信仰された場所である。
参道の石段を上ると、正面に立派な本堂がある。
本堂唐破風の下には、見事な霊獣の彫刻が施されている。丹波柏原の彫刻師、中井権次一統の作品である。
なかなか豪快な彫刻群だ。
この本堂が建てられたのがいつかは分らないが、中井権次の彫刻があるということは、江戸時代中期以降の建築だろう。
満福寺には、弘仁年間(810~824年)に弘法大師空海が来錫し、それから真言秘密の道場となった。
満福寺は、一時七堂伽藍十九坊を数える大寺院であったが、天正八年(1580年)の秀吉の但馬攻めで焼亡した。
その後の寛文年間(1661~1673年)に、出石藩主小出吉重により再建された。
私が本堂のガラスの嵌った引き戸を開けると、引き戸にひっついていたヤモリが地面に落ちて走って逃げた。
私が引き戸を開けた音を聞いて、客殿の方から初老の女性が出てきた。女性は、お手伝いで満福寺の留守番をしている方だった。許可を得て本堂内を参拝させてもらった。
私は本堂に入り、正面の本尊に対面した。
本尊は手に蓮華の花を持っていたので、観音菩薩像であると思われる。
本堂に連なる客殿の襖には、仏伝に関する絵画が描かれている。近くで見ることは出来なかったが、客殿の中はさながら仏国土のような厳かな空間だろう。
満福寺は、但馬聖人と呼ばれた江戸時代後期の儒学者・池田草庵が若いころに修行した寺院である。
池田草庵は、修行の途中、仏教よりも儒学に興味を覚え、寺から出奔したそうだ。
さて、満福寺の本堂を出て、車に乗り、奥の院を目指した。
満福寺の奥の院までは、舗装道路が続いており、車で行くことが出来る。
秘仏の千手観音菩薩立像は、33年に1度開帳される。次の開帳は西暦2053年である。
この観音堂の彫刻がまた素晴らしい。これも中井権次一統の作品だろう。
ところで観音堂の南側には、ちょっとした空き地がある。
昭和48年の発掘調査で、そこから中世墓が出てきたそうだ。中世には、死後自分の骨を霊山に埋めてもらう習慣があったそうだ。
最近、寺院や仏堂で線香の匂を嗅ぐと、やたらと親しみを感じるようになった。
私は昨年父が死んだ時に、父の枕元で僧侶が枕経を上げるのを見て、人は死んでしまえば、生前に達成したことや、地位の上下、財産の多寡に関わらず、ただお経を唱えられる存在に過ぎなくなることを実感した。
どうせただお経を上げられるだけの存在になるなら、生きている間に自分がお経を上げたらいいのではないかと思い始め、祖母の形見の仏壇の前でお経や真言を唱え始めた。
最近は、近所の大師堂などに行ってお経を唱えるようになった。
誰かの冥福や何かのためにお経を唱えているのではない。ただお経を上げるために上げている。
それに何か意味があるかと言えば、何も意味がないような気がするが、何となく気持ちが落ち着くので続けている。
お経や真言を唱えることで、少なくとも千数百年間続けられてきた営みに参加しているということは言えると思う。