本堂に入ると、畳敷きの広々とした空間が広がる。
法会の時には、多くの人が集まるのだろう。
本堂の奥には、本尊の釈迦三尊像、地蔵菩薩像、秋葉三尺坊大権現が祀られている。
まずは本尊の釈迦三尊像を紹介する。
中央が釈迦如来(現在)、向かって右が大日如来(過去)、向かって左が阿弥陀如来(未来)の像で、過去現在未来の三世の仏を表している。
この仏像は、京都四条の大仏師覚吉法眼が制作し、天文元年(1532年)に安置された。
元禄十一年(1698年)に修繕され、明和の大火の後、安永五年(1776年)に諸堂が再興された際に、小野の慈雲庵主が托鉢して光背、台座を寄進した。
その後、天保年間(1831~1845年)、昭和10年、昭和57年に修繕が行われた。
金色燦然としているが、古い仏像である。
本尊の手前の天井からは、天蓋が吊るされている。住職が座る場所の上にある。
天蓋の内側には、天女が描かれている。
天蓋は、元々インドで王侯貴族の頭上にかざされた日傘だったらしいが、仏教に取り入れられて、仏の徳の尊さを表す仏具となった。
知らないところで、インドの文化が日本に取り入れられているのである。
釈迦三尊像の西隣には、大きな地蔵菩薩像が安置されている。像の背後には、開祖通幻寂霊禅師を祀る開祖堂がある。
この華麗な地蔵菩薩像は、観音堂に祀られている大観世音菩薩像と対をなす形で、平成6年に安置された。
木肌に直接岩絵の具を擦り込む木地極彩色に、金箔を薄く切って貼り付ける截金の技法が用いられた。
地蔵菩薩は、釈迦入滅後、未来仏の弥勒菩薩が現れるまで、人々の苦しみを救うために現れる二仏中間(にぶつちゅうげん)の仏様である。
地蔵菩薩像の西隣には、永澤寺の鎮守の神様である秋葉三尺坊大権現が祀られている。
秋葉三尺坊大権現は、観音菩薩の化身と言われる神様で、火除け、災難除けの神様である。
この秋葉三尺坊大権現は、永澤寺が開創される前からここに祀られていたという。
明治35年に、静岡県袋井市にある秋葉総本殿可睡斎から、西日本の秋葉大権現の本殿となることを許可されたという。
可睡斎も曹洞宗の寺院である。こうして見ると、只管打坐を標榜し、板間で禅僧がひたすら座禅をしているイメージがある曹洞宗においても、神仏習合がある程度進んでいたことが分かる。
釈迦三尊像の東側には、床の間のある座敷がある。
この床の間には、仏足石の拓本の掛け軸が掛けられている。
この拓本は、2世紀に釈迦が誕生したネパールのルンビニーのマーヤ堂の前に安置された仏足石の拓本である。
釈迦の入滅後暫くは、釈迦の像を作ることは恐れ多いということで、仏足や宝傘を作って釈迦を表し、礼拝するということが行われた。
この仏足石は摩滅してしまって分かりにくくなっているが、周囲を蓮華文の文様で飾り、仏足の中央に転法輪、その右に法傘、左に王舎城を表徴するマガダ王国旗と如意棒、下方に法螺貝、左足上方に蓮華の蕾が彫られているという。
昭和63年に、インド政府の特別の許可を得て、書家・篆刻家の小田玉瑛氏が拓本を取ったものである。
思えば仏教は、形あるものは全て滅びるという諸行無常を唱えているのだから、仏教徒が形ある仏像や仏足石を礼拝すること自体、教えに矛盾しているわけである。
しかし仏教の初期教団のように、仏典も寺院も仏像も持たなければ、仏教は疾うに消滅していたことだろう。そうすると、教えを弘めることも出来なかったわけだ。
一方で、教えをわざわざ弘めずとも、形あるものは全て滅びるという真理は、この宇宙全域で人間の思惑に関係なく行われているわけだから、教えを弘めるまでもないという考え方もある。
そうすると、教えを弘める意味は、この非情な真理を人間に気づいてもらうためにのみあることが分かる。
仏像は、仏像に意味がないことを教えるためにそこにあるということになる。
仏像が湛える不思議な笑みは、この不可思議を人に教えるためにあるような気がする。