八頭町 鷹山城跡 前編

 5月15日に因幡の史跡巡りをした。

 最初に訪れたのは、鳥取県八頭郡八頭町北山にある中世の山城跡、鷹山城跡である。

 智頭急行丹比(たんぴ)駅の北側に聳える鷹山の山上にある城跡だ。

鷹山

 鷹山の麓にある北山集落の中央にごみステーションがあり、その脇に「町指定史跡鷹山城跡」と書かれた標柱と、説明板がある。

 鷹山城は、大江広元の子孫で、地元の国人となった丹比(たんぴ)氏が、代々居城とした城である。

 天正九年(1581年)の秀吉の因幡攻めの際、最後の城主丹比孫之丞は、鷹山城を放棄し、鳥取城に立て籠もったという。

 鷹山は、標高約408メートルの低山である。城の大手は山の南側になる。

 標柱の西側に、城の大手につながる道がある。

城の大手につながる道

 私は事前にネットで鷹山城跡に登った方のページを確認した。そこには、この大手から登るルートは急峻で、素人にはとても登れないと書いてあった。

 私は大事を取って、比較的登りやすそうな城の東南の尾根を登るルートを行くことにした。

 後ほど、私はこの大手側を下りることになるのだが、人生で経験した山歩きの中で最も苦難に満ちた下山となった。この大手側(といっても道があるわけではない)には挑戦しないことをお勧めする。滑落して遭難する危険性がある。

 標柱のある場所から東に歩くと、道が二股に分岐する。

分岐点

 ここで左側の坂道を登ると、左手に温室が見えてくる。

温室

 この温室から道を挟んだ向かい側に、東南の尾根に続く登山道が隠れている。

東南尾根に続く道

 上の写真を見ても分かりにくいが、写真中央付近から左上に登っていく道がある。

 さて、東南尾根に至る道を登り始めたが、このルートでも相当急である。道が整備されているわけでもなく、下に枯葉が積もっているので、通常のスニーカーでは滑る。ステッキに頼りながら登っていく。

 しばらく登り、中腹に至ると、最初の曲輪に辿り着いた。

東南側最初の曲輪

 なかなかの広さの曲輪である。久々に平坦な場所を歩いてほっとする。

 ここからは、再び上り坂が続く。

 途中風化して分かりにくくなっているが、堀切と土橋の跡と見受けられるものがあった。

堀切と土橋の跡

 写真中央の少し盛り上がった道が土橋跡だろう。

 ここから進むと、更に坂が急になる。

急になる坂

 御覧のように登山道らしいものはついていない。ただ尾根の上を歩いていくだけである。

 更に進むと、最初の切岸が見えてきた。

切岸

 城の東南側には、曲輪が何重にも築かれている。この切岸の上に削平された曲輪があるのだ。

曲輪

 曲輪は人工的に山の斜面を削って平らにした場所だが、本丸までこのような曲輪が幾つもある。曲輪に登って見上げると、次の切岸がある。

次の切岸

 感覚的には、ほとんど山を垂直に登るように感じるほど険しい。しかも土が柔らかく足をかけると崩れるので、山肌に生えている木を掴みながら登ることになる。

 成人男性なら何とか登ることが出来るだろうが、年配の男性や女性、子供ではこのルートを登るのも無理だろう。

 鷹山城跡を登るルートで一番緩やかなのは、南西の尾根伝いに登るルートである。私はこのルートは行かなかったが、出来ることならそちらをお勧めする。

 さてこの急な切岸を登っていった。

曲輪から下を見下ろす

 切岸を登って曲輪から下を見ると、今まで通過した曲輪が見える。よくもこんな急な切岸を登ったものだと我ながら感心する。

 しかし山頂の方を見ると、更に急な切岸が続く。

さらに続く切岸

 木を伝いながら登ったが、戦国時代にはこんな木は生えていなかったろう。木がない状態で、この切岸を登るのは不可能ではないかと思った。しかも曲輪の上には、弓矢や鉄砲や槍で武装した兵がいるのである。この城を正面から攻略するのは無理ではないかと思った。

 秀吉なら正面から攻撃せず、城を包囲して兵糧攻めにするだろう。

 さて次の切岸を登ると、やや広い曲輪に出た。

下の曲輪を見下ろす

 下を見下ろすと、一段下の曲輪の形が明瞭に見える。

 どうやら、本丸の一段下の曲輪まで来たようだ。

本丸下の曲輪

 残る最後の切岸を登れば本丸に到達する。

本丸の切岸

 南側を見下ろせば、大手側の曲輪が見える。

大手側の曲輪

 大手側にも何段も曲輪が築かれているようだ。私が登ってきた東南側よりも急峻である。

 この城を大手側から攻めるのは無理だと思われる。攻めるどころか、普通に登るのも無理だろう。

 さて、本丸跡に登ると、奥行きのある曲輪であった。

本丸跡の曲輪

 この広い曲輪を見て、苦労して登ってきた甲斐があったと思った。

 本丸跡の曲輪から大手側を見下ろすと、急な斜面を削平して曲輪を何重にも築いているのがよく分かった。

大手側の曲輪群

 上の写真をご覧になって分かると思うが、曲輪の下は、石でも転がすと、どこまでも転がり落ちていきそうな急な斜面である。

 鷹山城跡は、ほとんど無名に近い山城である。相当無理をしなければ本丸跡に辿り着けない城跡だ。なので、ネット上の紹介記事もほとんどない。

 だがそれだからこそ強固な守りを実感できる山城跡である。

 現代では、名城といえば姫路城のような立派な建物が残った城を言うが、訪れる人が稀な、急峻で防御が強固な山城も隠れた名城と言える。