本丸跡の西側には、銅門(あかがねもん)番所がある。
銅門は、本丸の西側にあった二の丸の登城門で、明治31年に寺町の正眼寺に移築された。
銅門番所は、銅門を警備した武士が駐留した建物だろう。
銅門番所は、門の移築後もそのまま残されたが、大正時代初頭に本丸跡に移築された。
昭和61年の天守再建に際し、今の位置に移動した。
現在に残る福知山城の建物の一つである。
城の東側に回ると、釣鐘門が再建されている。
名前の通り、往時には鐘が吊られていたのだろう。城下に時を告げていたに相違ない。
天守の東側には、豊磐(とよいわ)の井という井戸がある。
この井戸の深さは50メートルにもなり、日本の城郭に備えられた井戸としては、有数の深さであるらしい。
豊磐というのは、福知山藩を13代約200年に渡って統治した朽木氏の藩祖朽木稙綱(たねつな)を指している。
朽木稙綱は、幕府の若年寄として徳川3代将軍家光に仕え、幕藩制度の確立に抜群の功績を上げたという。
その功績により、常陸土浦三万石の城主となった。寛文九年(1669年)、稙綱の子稙昌が丹波福知山三万二千石に国替えとなった。
稙昌は、父稙綱を藩祖と仰いで福知山城内で祀った。稙綱の神名が豊磐命であった。
文政七年(1824年)、11代綱條(つなえだ)が城南の小丘を開平して、藩祖豊磐命を祀る朝暉神社を開いた。
明治の廃藩後、最後の藩主為綱は、朝暉神社を撤収して藩祖を自邸で祀ることにしたが、福知山城天守が破却された後の明治14年に、町民が為綱に朝暉神社の復活を願って、本丸跡に再度神社が建立された。
今本丸跡の北東に祀られている朝暉神社がそうである。
朽木氏の治政は、領民にとっても良いものだったのだろう。
さて、天守の東側に入口がある。
天守の内部は、福知山城の歴史についての資料を展示した福知山市郷土資料館となっている。
重要資料以外は写真撮影可であった。
福知山城を築き、福知山の町を造ったのは、天正七年(1579年)に丹波を平定した明智光秀である。
近江坂本城主だった光秀は、信長から丹波平定を命ぜられ、天正三年(1575年)、亀岡方面から丹波に攻め入った。
光秀は、八上城の波多野氏を降して丹波奥地に攻め入り、氷上郡春日庄の黒井城に拠る赤井氏と戦端を開いて、黒井城を包囲した。
天正四年(1576年)一月、当初光秀に降伏して味方した八上城の波多野秀治が突如離反し、黒井城を包囲する明智軍の背後を突いた。
光秀は黒井城の包囲を解いて一度退却せざるを得なかった。
天正五年(1577年)に再度丹波に入った光秀は、亀山城を築城してそこを拠点に再度丹波攻略にかかった。
天正七年(1579年)には、離反した波多野秀治の籠る八上城を攻略して波多野氏を滅亡させ、同年八月には、赤井直義の籠る黒井城を攻略した。
同じ頃、丹後平定に向かった細川藤孝、筒井順慶を後援して丹後も攻略し、同年10月には、安土城で信長に丹波、丹後の平定を報告した。
信長からは、「天下の面目をほどこし候」と激賞されたという。
天正八年(1580年)には、信長から丹波一国を所領として与えられた。
この時が、光秀の人生の絶頂期であろう。
光秀は、要衝となる福知山を発展させるため、領民の地子銭(固定資産税のようなもの)を免除した。
天正九年(1581年)には、「明智光秀家中軍法」を制定して、明智軍の規律や軍役の基準を制定した。
「明智光秀家中軍法」の巻末には、落ちぶれた境遇から自分を拾い上げてくれた信長への敬意が記されているという。
その光秀が、信長に叛旗を翻したのは、歴史の中の謎である。