丹波の地には、現在も日本酒を醸造する職人集団、丹波杜氏(とじ)が存在する。
丹波杜氏の歴史は、江戸時代前期に遡る。篠山藩主の厳しい年貢の取り立てや、気候の厳しさによる不作から、篠山藩の領民は生活に困り、元禄年間(1688~1703年)のころから、灘や伊丹の酒造地帯に出稼ぎに出るようになった。
こうして酒造の技術を修得した領民は、丹波に戻って酒造業を起こすようになった。丹波杜氏の誕生である。
丹波杜氏が古くから培った酒造方法や、使った酒造用道具を保存展示するために建てられたのが、丹波篠山市北新町にある丹波杜氏酒造記念館である。
この記念館内には、酒造の工程ごとに使用される道具が展示されている。それらを見学すれば、酒米から日本酒が出来る過程を学ぶことが出来る。
酒造りは、まずお米を洗うところから始まる。
踏桶に米を入れ、蓮桶から水を汲んで踏桶に入れ、足で米を踏んで洗う。
米作りは冬に行われる。肌を切るような冷たい水に足を踏み入れて、米を洗うのだ。重労働である。
洗った後の米を、午前9時ころに漬桶に入れて、途中水を入れ替えて、午後8時ころに水を抜く。こうして米は洗われた。
次は蒸米だ。
釜屋という職人が、夜中の午前0時ころにかまどに火を入れて釜の中の水を焚く。
釜の上には底に穴の空いた甑が置かれている。蒸気が甑に上がる仕掛けだ。
1時間ほどで釜の水が沸騰すると、釜の上に置いた甑の底にサルという道具を置き、蒸気が四方に出るようにする。こうすれば、甑に入れた米が満遍なく蒸されるようになる。
サルをセットしたら、甑に漬桶から移した米を入れ、蒸気で蒸すのである。
出来上がった蒸米は、出来を杜氏がチェックして、良ければ大蔵に運び込まれる。
蒸米は、麹(こうじ)、酛(もと)、醪(もろみ)の用途に区分し、それぞれ所定の温度まで冷やす。
蒸米は、筵の上に広げられ、釜屋が櫂割(かいわれ)という道具を用いて、蒸米に線を入れていく。間に谷間が出来ることで、蒸米は均等に冷やされる。
この次の工程が、酒造りのキモとなる麹造りである。麹は、米を発酵させてアルコールを作るのに必要だ。
麴用の蒸米を床に積み、その上に三重に筵を被せて覆う。2~3時間後、筵の上で蒸米に種麹(もやし、麹菌のこと)を振りかけ、蒸米を筵に擦り付け、手で揉む。
麹菌の繁殖には、30~40℃の高温と適度な湿度が必要である。外側の土壁と室の間の75センチメートルの空間に、籾殻と藁を詰め込んで断熱された麹室の高温のなかでこの作業が行われる。
蒸米に麹菌が繁殖し始めたら、蒸米を麹蓋に盛り、6枚重ねにして麹室に置き、積み替えなどを行って満遍なく麹菌が繁殖するようにする。こうして麹が出来上がる。
次は、酛仕込みである。
酛とは、麹と蒸米と水を混合させ、酵母を繁殖させたものである。
この酛が、醪をアルコール発酵させる元になるものである。
酛仕込みは、蔵中総出で汗だくになりながら作業する。
次の作業は醪仕込みである。
醪とは、酛に麹と蒸米と水を混ぜ、アルコール発酵させたものである。醪を仕込むに当って、酛の酵母や酸の濃度が薄まらないよう、また酵母以外の有害な菌が繁殖しないよう、蒸米、麹、水を三段階に分けて仕込んだ。一般に「三段仕込み」と言われている。
発酵した醪は、アルコール分を含むようになる。ようやく日本酒に近づいてきた。
醪仕込みの後、20~23日経って発酵した醪を酒袋に入れて、槽(ふね)の中に入れて圧搾し、液体を絞り出す。
絞り出された液体が即ち酒である。この作業を上槽という。
上槽の最も原始的な方法は、槽に酒袋を入れてその上に蓋を被せ、石を掛けた天秤棒を用いて蓋を上から抑え、圧搾するものである。これを石掛式という。
こうして圧搾された酒袋の中の醪から、酒が染み出てくる。
さて、こうして出てきた酒は白く濁っている。これを入口(いれくち)桶に入れて1週間ほど置いて滓を沈殿させ、濁りを取る。
滓が沈殿し、酒の上の方は澄んでくる。この上澄みを加熱して、酵母の働きを止める。これを火入れという。沈殿した滓が、粕である。
火入れの終わった酒は、形としては完成したが、これを旨い酒にするには熟成させる必要がある。
火入れの終わった酒を貯蔵桶に入れて、秋まで眠りに就かせる。
こうして貯蔵する間に熟成が進み、味わいのある酒になる。
私は酒に強いわけではなく、好んで飲むことはないが、上質な日本酒を口に含んだ時の風味の良さは格別であることは分る。
米と水と菌と酵母と気温と湿度の混合によって酒が出来る。
酒が出来る工程を知って、私のような酒飲みではない人間でも、ちょっと酒を口に含みたくなった。
酒は人を狂わせたり幸せにしたり、人同士の仲を良くしたり、悪くしたりする、何とも不思議な飲み物である。