福知山市 大原神社 後編

 大原神社境内には、文久三年(1863年)に再建された茅葺、入母屋造りの絵馬殿が建っている。

絵馬殿

 この絵馬殿では、昔は人形浄瑠璃や農村歌舞伎が演じられていた。奥に舞台がある。

絵馬殿奥の舞台

 また絵馬殿には、古くから奉納された絵馬が多数架かっている。

 最も古いものは、慶長四年(1599年)に奉納された神馬図である。

神馬図

 この神馬図が奉納されたころは、天正時代の明智光秀による戦火の記憶が、まだ生々しく残っていたことだろう。

 その他にも、元禄八年(1695年)に奉納された平敦盛熊谷直実の一騎打ちの絵馬、慶応三年(1867年)に奉納された天の岩戸の絵馬などがあった。

平敦盛熊谷直実一騎打ちの絵馬

天の岩戸の絵馬

 奉納された絵馬の豊富さから、古くから大原神社が厚く信仰されていたのがわかる。

 また、江戸時代まで拝殿に架けられていたと思われる、「天一位 大原大明神」と書かれた扁額があった。

天一位 大原大明神の扁額

 大明神の明の字は、密教明王から来ている。神仏習合の匂いを感じさせる大明神という神名は、明治政府が嫌い、明治以降、公には使われなくなった。

 この扁額は、明治に入って社殿から外されたのだろう。

 神社のある丘の中腹には、末社の水門(みなと)神社がある。昨日は火神神社を紹介したが、火と水の神様が境内に祀られていることになる。

水門神社

 水門神社の祭神は、天児屋根命である。奈良の春日大社の祭神でもある。大原大明神をこの地に案内した神とされている。

 大原神社に参拝する前に、水門神社に参拝すると、よりご利益が深まるという。

 大原神社から南に歩き、神社南側を流れる川合川に架かる橋を渡り、川沿いに西に約150メートル歩くと、大原の産屋(うぶや)という、小屋のような建物がある。

大原の産屋

 産屋とは、昔の日本女性が出産に際して籠った小屋のことである。

 大原では、出産の折、妊婦は十二把の藁を持ってこの産屋に入り、入口に魔除けの鎌をかけ、七日間籠って出産した。

魔除けの鎌

 大原では、産屋に籠っての出産は、大正時代まで行われていたそうだ。

 また、産後三日三晩産屋に籠る風習もあったそうだが、こちらの方は昭和23年まで行われていたそうだ。

 大原の産屋は、切妻造りの屋根をそのまま地面に伏せた原始的な造りで、天地根元造という、非常に古い様式の建物である。

大原の産屋の図

 産屋の内部中央には御幣が建てられているが、その奥に屋根から垂れた白い縄がある。

産屋内部

 妊婦が出産に際して力を入れる時に掴んだ縄だろう。

 産屋に妊婦が籠って出産するという習慣は、日本ではかなり古くから行われていたようだ。

 「古事記」上巻の鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)命の出生説話に、産屋の記述がある。

 天照大神の曽孫である山幸彦こと火遠理(ほおり)命は、海中にある海神(わたつみ)の宮殿で知り合った豊玉比売(とよたまびめ)命と婚姻した。

 豊玉比売は、火遠理命の子を身籠ったが、天津神天照大神系統)の子を海中で産むことは出来ないと言って、渚に上がって、鵜の羽を葺草(かや)にして産殿(うぶや)を造った。だが屋根を未だ葺きあえぬ時に産気づいて、慌てて産殿に入った。

産屋

 豊玉比売は夫である火遠理命に、産むときには私は元の姿になって産むので、決して産殿を覗いてくれるなと懇願した。

 だが、火遠理命がふいと産殿を覗くと、妻は八尋鰐(やひろわに、巨大なサメのこと)の姿で産殿の中を這い回っていた。驚いた火遠理命は走って逃げた。

 豊玉比売は夫に姿を見られたことを恥じて、子を産んだ後、海に帰って二度と地上に戻らなかった。

 こうして生まれたのが、鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)命である。鵜葺草葺不合は、初代神武天皇の父神である。

 私は、大原の産屋を見ることで、「古事記」に出てくる産殿の実物を見た気がした。  

 神話に出てくる古い風習が、昭和の時代まで続いていたのである。古代人との紐帯を感じながら大原の里を後にした。