兵庫県丹波市市島町多利にある妙高山の山頂付近にあるのが、天台宗の寺院、妙高山神池寺である。
妙高山は標高約565メートルだが、山頂付近までは自動車道が延びており、車で上がることが出来る。
寺伝によれば、養老二年(718年)にこの地を訪れた法道仙人が、観世音菩薩を安置して開創したという。
法道仙人による開創伝説が残る寺院は、丹波から東播磨にかけて多数分布するが、大概の寺院は7世紀半ばに開創されたと謳っている。
養老二年という年代は、法道仙人による開創の年代としては新しい。
山容が経典の須弥山に似ているので、山号は妙高山と名付けられた。また山頂付近に不増不減の霊池があったことから、寺号は神池寺とされた。
境内に瓢箪型の池があった。境内にはこの池しか見当たらなかった。これが不増不減の神池であろうか。
聖武天皇の御代に神池寺の堂塔が整備された。その後伽藍は荒廃したが、貞観元年(859年)に清和天皇により再興された。
そのころ慈覚大師円仁が当山を訪れ、天台宗の道場とした。神池寺は堂宇32、坊舎100余の威容を誇り、丹波叡山と呼ばれた。
保元元年(1156年)には、平重盛が参拝し、一字一石に「法華経」を書写して納め、平家一門の菩提を祈ったという。
また奈良から春日明神を勧請し、本堂奥に春日神社を建立した。明治の神仏分離令まで、春日部庄全体の鎮守として祭礼が行われていた。
境内には古い石垣があり、石垣の上に観音堂、弁天堂、常行堂の3つの建物があった。
観音堂には、西国三十三所霊場に祀られている各観音菩薩の石像が置かれ、その前に三十三所霊場のお砂が置かれていた。
このお砂を踏むことで、西国三十三所霊場にお参りしたのと同じ御利益が得られるのだろう。
また、観音堂の隅には、以前妙高山の山頂に祀られていたお地蔵さまが安置されていた。
ゆったりしたいいお顔のお地蔵さまだ。
元弘三年(1333年)には、後醍醐天皇の子で天台座主だった大塔宮護良(もりよし)親王の令旨を受け、80余名の神池寺の僧兵が後醍醐天皇方に加わり、鎌倉幕府討滅のため京都五条の西洞院まで攻め上ったが、戦いに敗れ悉く戦死した。
幕府軍が神池寺に押し寄せ、堂塔伽藍全て焼失したという。
観音堂の脇には弁天堂がある。
弁天堂に祀られる弁才天は、元はインドの水の神様である。神池の神様として祀っているのだろう。
弁天堂の裏には、浄心瀑布という、山から湧いた水が落ちる滝行の場があり、不動明王像が鎮座している。
鎌倉幕府軍の攻撃により焼失した神池寺だが、室町時代に再度復興する。
だが天正年間の明智光秀の攻撃により、またもや全山焼き討ちに遭う。
江戸時代に入ると、歴代徳川将軍の庇護により、丹波の一大霊場として復興した。
考えてみれば、比叡山を焼き討ちした信長は天台宗を目の敵にしていた。
一方徳川家の宗派は天台宗である。江戸時代になって、日本全国の天台宗寺院が幕府から手厚く遇せられたのは、そのお陰だろう。
弁天堂の奥には、兵庫県指定文化財の木造阿弥陀如来像を祀る常行堂がある。
常行堂は、僧侶が堂の中央に安置された阿弥陀如来像の周りを歩きながら、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える念仏行を行うための堂である。
浄土宗や浄土真宗といった念仏宗派が比叡山で学んだ僧侶から出たのは、天台宗にこの行があったからだろう。
江戸時代に最盛期を迎えた神池寺だったが、明治政府により寺領を官有地にされて堂塔の維持が困難になった。
また明治政府から、寺宝であった大塔宮護良親王の鎧を奉納することを求められた。
神池寺が明治政府に奉納した大塔宮護良親王の鎧は、明治政府が建立した護良親王を祭神とする鎌倉宮の御神体になった。
この石造宝篋印塔は、塔身の四面に華頭窓様の龕が彫られ、その中に仏像が浮き彫りにされている。
この宝篋印塔の制作年代は分からないが、様式、手法から南北朝時代のものと言われている。
鎌倉幕府軍に攻められて、神池寺が全山焼失した後に、誰かが供養のために建てた宝篋印塔ではないか。
明治政府は、当初国学者達が主導して国家神道を国教とし、護良親王のような南朝方の英雄を祀る別格官幣社を全国に設立した。
そして神道に入り込んだ仏教の要素を徹底排除するため、神仏分離令を出した。
春日神社と習合していた神池寺も、明治政府の目の敵にされたようだ。
神池寺の歴史は、寺院らしからぬ戦いと弾圧の歴史だが、激動の歴史を経て残ったものは、静かな山の中の伽藍と仏像、経典、仏道修行だろう。
長い歴史を経て残るものは、その物事の中で最も本質的なもののようだ。