兵庫県洲本市山手2丁目にあるのが、古くから洲本城の鎮守として崇敬されてきた洲本八幡神社である。
社伝によると、淡路国司となった藤原成家が、永祚二年(990年)に領国において苦難に見舞われた際、八幡大神が出現して今後進むべき方向を示したという。成家はこの奇瑞に遭遇したことに感謝して、洲本八幡神社を創建したとされる。
以後洲本八幡神社は、開運開きの神様として崇敬されている。
室町時代末期、安宅秀一が三熊山上に洲本城を築いた時、秀一は洲本八幡神社に一晩籠り、祈りを捧げたという。
その後も洲本城主脇坂安治、徳島藩主蜂須賀氏、洲本城代稲田氏の祈願所として信仰を集めた。
八幡大神は、和気清麻呂の宇佐八幡の神託のエピソードでもそうだが、困難に遭った人に進むべき道を指し示してくれる神様のようだ。
だが、方向を示すだけで助けてくれるわけではない。成功するかどうかは、神託を受けた人の努力次第だろう。
洲本八幡神社の社殿は、武家に崇敬された社に相応しく、装飾を排した簡素な銅板葺の建物である。
本殿の裏手には、かつてどこかの神社に祀られていたと思われる、社名を刻んだ石が集めて置かれていた。
廃社となった神社にあったものと思われる、使い古しの狛犬もある。これから廃絶となる寺社が増えるたびに、祀る者がいなくなった仏像や狛犬をどうするかという問題が出てくるだろう。
さて、洲本八幡神社の境内には、寛永十八年(1641年)に建てられた洲本城御殿の一部が移築されている。
今では金天閣と呼ばれている。
洲本には、安宅秀一が三熊山上に築き、その後脇坂安治が石垣を整備した「上の城」と呼ばれる洲本城と、寛永八年(1631年)以降に徳島藩が三熊山北麓に築いた「下の城」と呼ばれる洲本城がある。
洲本八幡神社境内にある金天閣は、下の城の御殿として建てられた建物の内、唐破風のついた玄関部と書院のみが移築されたものである。
内部は公開されていないが、黒漆塗りの折上げ格天井に金箔が塗られていることから、金天閣と呼ばれるようになったという。
書院の納戸構えや違い棚の飾り装飾、欄間彫刻などに、江戸時代初期の御殿建築の特色があることから、兵庫県指定重要有形文化財になっている。
一度内部をじっくり見学してみたいものだ。
洲本八幡神社境内からは、洲本城跡(上の城)の模擬天守が見える。
山上の洲本城よりは、洲本八幡神社の方が先にこの場所に建っていた。
今でもそうだが、日本人は新しい建物を建てる時に、土地の神様に祈願する。土地に神霊が宿るという観念は、現代日本人にも染みついている。
そう考えると、身近にある地元の小さなお社でも、粗末にすることは出来ないと感じる。