丹生神社の二の鳥居を過ぎて、境内に入っていく。
二の鳥居を過ぎると、石垣が見えてくる。
天正七年(1579年)、三木合戦の際、多くの僧兵を有した明要寺は、秀吉と対立する三木の別所氏側に付いた。
明要寺は秀吉軍の攻撃を受け、堂塔は焼かれた。
私は、播州周辺の社寺を巡ってみて、ほとんどの社寺が天正の三木合戦の時に焼かれていることを知った。別所に味方した社寺は秀吉に焼かれ、秀吉に味方した社寺は別所に焼かれている。
焼かれなくても、三木合戦後に秀吉によって朱印地を減らされた社寺は、秀吉に積極的に味方しなかったのだなと分かる。
加古川市の鶴林寺は、例外的に燃やされていないが、どんな事情があって焼失を免れたのか、知りたいところだ。
さてこの石垣が、丹生城跡のものかどうかは分らない。
しかし、上部が垂直に立っているところを見ると、防御用の石垣のように見える。
この石垣の上には、城跡として言うと、二の丸と言うべき平地がある。今は社務所が建っている。
大きな建物であるので、社務所というよりは、祭事の時に地元の氏子が利用する建物といっていいだろう。
建物の前に土俵がある。標高500メートル以上の山頂まで登ってきて相撲をする元気があるのは、子供くらいだろう。
この先には、本殿のある台地がある。
城跡で言うと、本丸跡だろう。
石段を上ると、社殿がある。
本殿の向拝の木鼻は牡丹であった。多くの神社建築では木鼻は獅子や獏といった霊獣なので、ちょっと珍しい。
ささやかな社殿であったが、静かな威厳を感じた。祭神の丹生都比売命に一礼した。
境内に、小さいが寺院建築と思われるお堂があった。
ひょっとしたら、明治の明要寺の廃寺以前からあった建物かも知れない。
丹生山の頂上からは、南東方向がよく眺められる。
南東方向には、少し霞んでいるが、神戸市北区最大の住宅街、鈴蘭台や小倉台が見える。
余談だが、谷崎潤一郎の「細雪」を読んだ時に、小説中に鈴蘭台という地名が出てきて驚いたことがある。
「細雪」の舞台は、昭和13年ころの神戸阪神間の中上流階級の生活だが、戦後に出来たニュータウンのような名称の鈴蘭台が、戦前に既にあったことは新鮮な驚きであった。
小説中の些細な発見に過ぎないが、戦前と戦後の日本が連続していることを実感した。
さて、丹生神社の参拝を終え、明要寺の奥の院があったという帝釈山に向かった。
帝釈山は、丹生山の隣にある山で、標高は約586メートルである。
二の鳥居の脇から帝釈山に向かう道が分かれている。
麓から丹生山頂上までは約1時間かかったが、ここから帝釈山頂上までは約40分かかった。
特に頂上手前から道が急になり、かなりへたばった。その代わり頂上からの眺めはとても好かった。
かつて帝釈山の明要寺奥の院には、梵天と帝釈天を祀っていたという。2つの小さな石の祠はあったが、明治の廃仏毀釈で撤去されたのか、石像はなかった。
帝釈山頂上からは、南側への眺望が開けている。
特に素晴らしいのは、淡路島が見渡せることである。写真ではぼんやりとしか映っていないが、肉眼では明石海峡大橋も小さくはっきり見える。
手を伸ばせば、淡路島をにゅっと手で掴めるのではないかと錯覚するような眺めだ。
帝釈山から下りて、麓に戻った。
帝釈山の東側には、稚児ヶ墓山と花折山という山が連なっている。
秀吉軍が明要寺を焼き討ちし、僧兵を多数殺害した時、寺の稚児も多数焼死した。村人たちは憐れんで、稚児たちの亡骸を稚児ヶ墓山に葬ったという。
またその東隣の花折山から花を折って、稚児たちの墓に供えたそうだ。
信長軍は、延暦寺を焼き討ちしたり、一向一揆衆を皆殺しにしたり、反抗する宗教勢力に対しては、徹底した弾圧を加えたが、史跡巡りをすると、秀吉も光秀も忠実にその方針を履行していたのが分る。
秀吉は、最終的に刀狩りをすることにより、平安時代から武力で宮廷を悩まし続けた宗教勢力を完全に武装解除させた。
秀吉の最大の功績は、宗教勢力が武力をちらつかせて政治に容喙する日本の悪習を打ち砕いたことだと思われる。