石谷家住宅の見学を終え、智頭宿を散策した後、スイフトスポーツで鳥取県八頭郡智頭町市瀬板井原にある上板井原(かみいたいばら)集落を目指して走る。
上板井原集落は、牛臥山の北側の山腹にある集落である。標高約430メートル、智頭の町からでも約130メートルは高い所にある。
智頭宿の外れにある智頭警察署の裏手から、集落へ至る細い山道が分岐している。そこからは長い長い山道になる。スイフトスポーツは水を得た魚のように走る。
山上の上板井原集落に着くと、そこは明治時代そのままの姿の場所であった。
上板井原集落は、享和三年(1803年)に新田村落として成立したという。生業は、焼畑農業、炭焼き、養蚕であった。
江戸時代には、農民たちが新たな収入を得るために、山を開拓して田畑を作り、集落を築いたようだ。
しかし上板井原集落には、享和以前の宝篋印塔があるそうで、江戸時代より前から村落があった可能性がある。ひょっとしたら、平家の落ち武者が来ていたのかも知れない。
上板井原集落は、赤波川の左岸に出来た集落である。
江戸時代後期は、30軒の民家があったが、現在は23軒にまで減少している。
明治32年(1899年)の大火で、18軒の主屋が焼失したが、復興もすぐに行われた。
江戸時代の地割で家が建っているので、当然集落内に車は入ることは出来ない。赤波川にかかる小さな橋を渡って集落内に入っていった。
集落の建物は、ほとんどが明治32年の大火以降に再建されたものだろう。大半の建物が築100年以上は経っているものと思われる。
江戸時代の地割をそのまま残すこの集落は、平成16年に鳥取県の伝統的建造物群保存地区に選定された。
上の写真の中央の道が、この集落のメインストリートだろう。
このメインストリートに面して、智頭町有形文化財の藤原家住宅がある。
藤原家住宅は、明治32年の大火後すぐに再建された建物で、木造平屋建て、茅葺入母屋造の建物である。
藤原家住宅の隣には、古民家を改造したカフェがあった。
またその向かいには、民芸品や雑貨を売る店があった。
上板井原集落は、冬は深い雪に閉ざされる。冬になる前に、住民のほとんどは麓に下りてしまうらしい。春夏秋の間だけ人が住む集落だ。
このような集落は、住民が高齢化し、年々維持が難しくなってくる。若手が入ってきて古民家を改造し、店舗としてオープンすることで、集落に新しい命が吹き込まれる。
集落を散策すると、趣のある民家が多数目に入る。
上板井原集落の隣には、板井原集落という集落があったが、こちらは昭和50年に廃村となったそうだ。
上板井原集落、板井原集落と麓の智頭宿との間は、昔は徒歩でしか通行できなかった。
昭和42年に古峠の下にトンネルが開通して、車で町と集落を行き来できるようになると、急速に過疎化が進んだ。
交通の便が悪いと誰もが地元に留まるが、便が良くなると、みな外に仕事や買い物に出て行ってしまい、地元が廃れてしまう。いわゆるストロー効果である。
大阪も、東海道新幹線が開通するまでは、東京と張り合う大都会だったが、新幹線が開通して、東京から日帰り出来るようになると、大阪の会社は本社を東京に移してしまい、大阪は支社の町になってしまった。
今工事が進んでいるリニア新幹線が出来ると、東京以外の沿線の町は皆衰退するだろう。リニアの駅を地元に引っ張ろうと頑張っている自治体は、それを予測しているのだろうか。
人口の大半が農業に従事していて、ほとんどの人が土地に縛られていた時代は、皆土地を離れなかったが、工業化が進展すれば人は仕事のある場所に移動するようになる。これは仕方がないことである。
鉄道各社はコロナ禍と人口減による鉄道需要の減少で、地方路線を廃線にすることを考えている。またテレワークがこれから進んでいき、自動車の自動運転も進展することだろう。
2000年にはスマートフォンというものが夢物語で、今の状況を誰も想像すら出来なかったように、今では想像もつかない全く新しい産業が将来出てくる可能性もある。
そんな未来に、日本の人口分布がどうなっていくのか、興味深いところである。