赤和瀬

 日本原子力研究開発機構の敷地の東側の谷間に、赤和瀬(あかわせ)と呼ばれる集落がある。

 赤和瀬川沿いに田畑が広がる典型的な日本の農村の風景である。

赤和瀬の風景

 本当に美しい風景だ。ここは、かつて木地師と呼ばれた職人集団が住み着いた集落である。

 この赤和瀬の一角に、古民家を利用した山菜食堂や、木地師の館という資料館のある「うたたねの里」と呼ばれている場所がある。

山菜食堂「いっぷく亭」

 私は、嘉永三年(1850年)築の旧小椋家住宅を移築改造してオープンした「いっぷく亭」という名の山菜食堂で、遅めの昼食を摂った。

 私がここを訪れたのは、午後2時ころだったが、数名の女性従業員が、集まって遅めのまかない食を摂っていた。

 旧小椋家住宅は、後ほど紹介する木地師の居館として建てられた民家である。

いっぷく亭店内

 いっぷく亭店内は、中央に囲炉裏があり、瑞々しい板材で床が張られた落ち着きのある空間だった。

 この赤和瀬地区は、冬は深い雪に閉ざされていることだろう。

 ここで食べた山菜定食は、なかなか美味しいものであった。

 いっぷく亭で文字通り一服したあと、店外に出ると、坂の先にもう一軒古民家があった。

うたかたの館

 この古民家は、「うたかたの館」という名だったが、開いておらず、どういう建物なのか分からなかった。

 うたかたの館を過ぎて、更に坂を上がると、上齋原木地師の館がある。

上齋原 木地師の館

 木地師とは、轆轤や工具を使って、木で椀や盆、杓子などを作る職人のことである。

 轆轤を使って木製品を作る技術は、弥生時代には既に始まっていたとされている。

 奈良県にある弥生時代の遺跡である唐古遺跡からは、木製の高坏が出土している。

 「正倉院文書」にも「轆轤工」という文字があり、奈良時代には、朝廷に使える職人集団として木地師がたちが活躍していたようだ。

 木地師たちは、ブナ、ケヤキ、トチ、クリ、ミズメなどの良材を伐採して荒取し、1~2年乾燥させてから加工する。

 盆や鉢の形に合うように、原木を手製のコンパスで木取りし、丸鋸で削り出して、手斧などを用いて形を整える。

 中心にある軸木に綱を巻き付け、左右から綱を引っ張って軸木を回転させ、軸木の先に付けたカンナで木取りした材料を削って食器などを形成し、漆を塗って完成させた。

木地びき轆轤

 伝説では、木地師発祥の地は、近江国愛知(えち)郡小椋庄とされている。

 中世になると、木地師たちは、自分たちの祖先を平安時代前期の文徳天皇の皇子惟喬(これたか)親王と称するようになった。

 母が紀氏であった親王は、時の権力者藤原良房から疎まれて、皇太子になるのを阻まれ、出家して小椋庄に隠棲したという。

木地師が作った盆

 出家した親王は、ある日読経の際に経典の経軸が転がるのを見て、轆轤を思いつき、それを土地の人に教え、その技術を学んだ木地師が良材を求め全国を放浪するようになったという。

 小椋庄を発祥の地とする木地師たちの中には、小椋姓を名乗る者が多い。

 中世以降木地師たちは、惟喬親王の子孫を称して、時の権力者から全国を移動する許可や、山の七八合目以上の木の伐採権を得、免状や綸旨などを携えて、良材を求めて全国を渡り歩き、山間の地域に滞在して木を伐採し、木製品を作った。

木地師が作った椀

 江戸時代に入ると、放浪生活をしていた木地師たちの中に、山間部で農地を手に入れ、農業と木地師を兼業して定住する者たちが現れた。

 赤和瀬もそうして定住した木地師たちが作った集落である。

神棚へのお供え椀

 赤和瀬に木地師が住んでいたことを示す最古の記録は、明暦三年(1657年)の氏子駆帳で、人口57人の集落があったことが記録されている。

 元禄元年(1688年)以降は、赤和瀬で常に木地師集落が営まれていたが、まだ定住集落ではなかったようだ。

 18世紀中ごろになると、農業を兼業して赤和瀬に定住する木地師が出てきたことが地域の古文書に載っているという。

めんこ(弁当箱)

 明治時代に入ると、赤和瀬でも農業や牧畜、炭焼きが主な生業となり、木地師は冬季に現金を得るための副業になった。

 赤和瀬最後の木地師は、小椋藤吉(1879~1962年)だが、陶磁器やガラス、金属の食器が普及し、木製の食器の需要が減少した昭和初期に廃業したという。

 木地師の館では、木地師の技を伝承するため、現在も木地師たちが木製品を製造し、展示販売している。

現在の木地師の作品

 私が訪れた時も、現代の木地師が奥の工房で作業中であった。

 考えてみれば、現在の食器の主流は磁器やガラス器で、木製の器は稀である。改めて木製の器を持つと、軽くて温もりがあり、これはこれでいいものである。

 中世近世の日本には、土地に縛られずに自由に全国を移動して山岳修行する修験者たちがいたが、木地師も自由に移動して山上の木を伐採する許可を得ていた。

 このように土地に定住せずに放浪しながら生活する人は、現代の日本にはほとんどいなくなった。

 だがこうした流浪者の生活も、日本文化の一面なのである。