大原神社の参拝を終えて、同じ樫原の集落内にある国指定重要文化財・石田家住宅を訪れた。
私が訪問した時は、凄まじい雨になっていた。
石田家住宅は、この地方の庄屋の家である。昭和42年に発見された縁桁に記された墨書から、慶安三年(1650年)に建築された建物だと判明した。
建築年代が判明している日本の民家の中で、最古の民家であるらしい。
石田家住宅は、入母屋造茅葺の民家である。外壁は板で覆われていた。
私は今まで神戸市北区にある箱木家住宅や、兵庫県姫路市安富町にある古井家住宅などを訪れたことがある。
箱木家住宅は室町時代前期(14世紀)、古井家住宅は室町時代後期(16世紀)の建築で、17世紀の建物である石田家住宅よりは古かった。
石田家住宅が最古というのは、あくまで建築年代が確認できる民家の中で最古ということである。
箱木家住宅と古井家住宅は外壁が土壁であった。石田家住宅は板壁である。
茅葺の屋根が美しい。令和2年に葺き替えたものらしい。
茅葺屋根は、夏は涼しく冬は暖かく過ごすことが出来る。日本の気候に適応した素材である。
狭い入口から建物内に入ると、ニワと呼ばれる土間がある。
ここには土製の竈や流しがある。ニワの奥には、ダイドコと呼ばれた居間がある。
昔の農家の土間は広かった。雨の中の農作業を終えて家に帰って、濡れた蓑や笠を脱いだり、収穫物や農具を持って入るには、これぐらいの広さがあった方が便利だったのだろう。
竈に枯れ枝が入れられているが、枯れ枝も煮炊きをするための貴重な燃料であった。
当時の流しには、勿論現代のような水道の蛇口はない。井戸から汲んだ水を桶に入れて、その水を使って料理したり洗い物をした。
洗い物をした後の水は、そのまま外に流れる仕組みであった。
ニワからは、はしごをつたって屋根裏部屋に上がることが出来た。
ニワに隣接するのがダイドコ(台所)と呼ばれる囲炉裏のある居間である。
ここは板の間である。上の写真の右手前にある柱には、手斧(ちょうな)で削った跡がある。
ニワからダイドコに上がる際にまたぐ框にも手斧の跡がある。
手斧の削り跡は、武骨で美しい。
ダイドコは、囲炉裏を中心とした空間である。家族がここで食事をしたり、団欒をしたことだろう。
ダイドコには多数の甕が置かれてる。これらの甕は、本来は土間に置かれていたことだろう。
農家では保存食として漬物を作った。これらの甕は、漬物や味噌などを保管するためのものだったろう。
私は田舎に住んでいるが、今でも広い田や畑を持つ地元の農家の人たちは、食べ物はなるべく自給しているという。わざわざスーパーで食材を買わずともよいのだ。
昔の農家の人たちは、現金をあまり使わない生活を行うことが出来たのである。
ダイドコの奥には、ヘヤと呼ばれた納戸がある。
納戸のような家財道具を置く部屋があったのだから、庄屋の生活は一般の農民と比べて裕福だったのだろう。
ダイドコの隣には、オモテと呼ばれた座敷がある。畳敷きの座敷である。
オモテには床の間まである。
今では当たり前の畳も、当時は贅沢品である。床の間のある畳敷きの部屋は、武家や公家の屋敷にしかなかったと思っていたが、庄屋の家にもあったのだ。
オモテに面してエンゲと呼ばれる縁側があった。
江戸時代の庄屋は、大抵が室町時代、安土桃山時代まで地元の武士で、戦乱の世が終結すると同時に帰農した家である。
そのため、苗字を名乗ることを許されていた。石田家もそうだったのだろう。
オモテの隣には、シモンデと呼ばれた下座敷がある。
家族はここで寝たのだろうか。
シモンデと隣接してマヤ(馬屋)と呼ばれた板の間がある。
板の間なので、実際にここで馬を飼っていた訳ではなかろう。物置になっている。
この石田家住宅に象徴される農村の生活が、日本人の歴史の大部分を占めている。
江戸時代の農業人口は、人口の約80%であった。明治43年(1900年)でも、日本の全人口の2/3が農業に従事していた。
工業化の進展と共に、農村人口は、都市部に移動した。産業が近代化するまでは、日本の歴史の大半は、農村と共にあったわけだ。
今では当たり前となった都市生活も、長い日本の歴史の中では例外的な生活である。
昔の日本人の大半は、農民として農地に縛られた生活をしていた。武士や貴族も農地からの収益に依存する生活をしていた。
田の農作業から離れて日本の歴史は存在しない。