昔、兵庫県丹波市柏原町周辺は、山城国の石清水八幡宮の社領地であった。万寿元年(1024年)、この地に八幡大神(応神天皇)が勧請され、柏原八幡神社が建てられた。柏原別宮とも呼ばれた。
柏原八幡神社は、入船山という小高い丘の上にある。入船山の前の街並みは、かつての柏原の中心部である。そこに、丈の高いケヤキの木がある。
樹齢約千年とされる兵庫県指定文化財の大ケヤキ(木の根橋)である。
この大ケヤキが、別名「木の根橋」と呼ばれているのは、変形した根が幅6メートルの奥村川を跨いでいて、自然の橋のようになっているからである。
とにかく根の部分が太くどっしりしている。奥村川に流れる水をどんどん吸い上げているかのようだ。
さて、木の根橋の見学を終え、柏原八幡神社に向かう。
舒明天皇(629~641年)の御代に、出雲の連(むらじ)らが、入船山の頂に素戔嗚尊を祀ったのが、この地に神様が祀られた最初とされる。山の頂に、社殿がある。
その入船山の登り口前には、一の鳥居がある。
一の鳥居は、根の部分が石造で、その上が木製であった。
石と木をかみ合わせた鳥居は初めて見た。一の鳥居を潜り、石段を踏みしめて入船山を登っていく。
石段を登ると、途中社務所がある。
社務所の前を過ぎて、しばらく登ると、二の鳥居があり、その先に社殿がある。
二の鳥居を潜って、境内に入る。正面に見えるのは、天正十三年(1585年)に再建された拝殿と本殿である。
柏原八幡神社の社殿は、貞和元年(1345年)の戦乱で焼けてしまった。その後再建されたが、天正七年(1579年)に明智光秀が入船山に陣を布いた際に焼けてしまった。
その後、天正十三年に秀吉により再建されたのが今の社殿である。
唐破風の付いた入母屋造の拝殿に、三間社流造の本殿が接続した複合社殿で、屋根は檜皮葺である。
社殿の背後には、朱塗りの三重塔が聳える。かつての神仏習合の名残であろう。
そう言えば、拝殿の側面には、仏教寺院に見られる華頭窓がある。
檜皮葺の屋根が傷んできているが、桃山時代の特色をよく残した名建築だ。柏原八幡神社の社殿は、国指定重要文化財である。
拝殿の前に立つ一対の狛犬は、文久元年(1861年)に但馬国竹田出身の石工、丹波佐吉が彫ったものである。
当時大坂にいた佐吉の仕事場で制作され、船で運ばれたという。材質は柔らかい和泉砂岩で、おかげで細かい彫りを入れることが可能になった。
狛犬の台座の「奉献」の字は、筑前国の女儒・亀井少琴(しょうきん)の揮毫だという。
砂岩は、柔らかいため、風化が進みやすい。この狛犬も年月と共に傷んだが、平成23年に修復され、制作当時の姿に戻った。
境内には、厄除神社がある。毎年2月17、18日に行われる厄除大祭は、「丹波柏原の厄神さん」と呼ばれ、北近畿を中心に約7万人の参拝客が訪れるそうだ。
厄除大祭で行われる青山祭壇の儀は、日本最古の厄除神事で、往古の道饗(みちあえ)祭、疫神祭の遺風を伝える貴重な神事であるらしい。
厄除神社前の狛犬は、柏原町内の彫刻家、磯尾健治が昭和27年に彫った作品である。
丹波佐吉作の繊細な彫りの狛犬とは雰囲気の異なる、豪快な狛犬だ。
神社の社殿と三重塔を同時に拝める場所は珍しい。柏原八幡神社は、中世の信仰の形を冷凍保存したような場所である。
八幡大神は、武神として武家に大事にされたため、戦乱で燃えた各地の八幡神社の社殿も力を入れて再建された。全国の八幡神社に名建築が多いのはそのためだと思われる。