柏原八幡神社 後編

 厄除神社の前を過ぎれば、正面に三重塔が見えてくる。柏原八幡神社三重塔は、私が史跡巡りで訪れた、19番目の三重塔である。

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社殿の奥の三重塔

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三重塔

 この三重塔は、文化十年(1813年)から同十二年(1815年)にかけて再建された。この塔の彫刻は、中井権次一統の五代目、中井丈五郎橘正忠と3人の息子が手掛けたと言われている。

 京都の中井一族が柏原に住むきっかけとなったのが、元和元~五年(1615~1619年)に行われた柏原八幡宮三重塔再建だったとされるから、中井権次一統は、つくづくこの三重塔と関りが深いことになる。

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三重塔一階

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 三重塔の一階には、四面それぞれに種類の異なる鳥の彫刻が施されてる。また四隅の尾垂木に龍の頭が彫刻され、上下の尾垂木の間に力士の像が挟まれている。

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鶴の彫刻

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龍と力士の彫刻

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雁の彫刻

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鴛鴦の彫刻

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鷺の彫刻

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 写真の通り、四隅の力士像は、それぞれ異なったポーズで軒の重さを支えている。眉が太くて漫画的で、文化年間の作とは思えないユーモラスさだ。中井権次一統にも遊び心があったのだろう。

 鳥獣戯画図や北斎漫画のころから、日本が漫画王国になる素地はあったわけだから、現代の日本漫画も、日本の伝統を継いでいるものと言えよう。

 この三重塔は、兵庫県指定文化財である。

 三重塔の前にある鐘楼には、これまた兵庫県指定文化財の銅鐘がかかっている。

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鐘楼

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鐘楼の木鼻

 鐘楼の木鼻の獏の彫刻は、長い鼻を巻いて二重にしたもので、ここにも遊び心を感じた。これも中井権次一統の作だろう。

 この鐘楼にかかる銅鐘は、康応元年(1389年)と天文十二年(1542年)の二つの年号が刻まれている。

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銅鐘

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丹波国氷上郡 高山寺 康応元年の銘

 天正年間に秀吉が大砲鋳造のため、氷上郡内の銅鐘を柏原に集めた際、この鐘が特に優れていたため、柏原八幡宮に改めて奉納したとされる。明治の神仏分離の際にも棄却を免れた。

 この鐘を三回鳴らすと願いが叶うというので、私も鳴らしてみた。ゴーンと抜けるようないい音がした。

 さて、三重塔や釣鐘といった神仏習合の名残が色濃く残る柏原八幡神社だが、慶応四年(1868年)に新政府が出した神仏分離令により、神と仏が分けられることになった。

 入船山の東麓にある乗宝寺に、柏原八幡宮にあった仏像や経典、仏具が移され、平和裏に神仏が分かれた。

 乗宝寺の御本尊は薬師如来のようだ。かつて柏原八幡宮で祀られていたものだろう。

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乗宝寺

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 柏原八幡神社には観光客が多数訪れていたが、乗宝寺には訪れる者とてない。ひっそりとしたものである。

 この寺に収蔵されていた、国指定重要文化財の「紫紙金泥法華経」8巻、「紺紙金泥大威徳陀羅尼経」巻第十六は、奈良国立博物館に収蔵されている。

 大威徳陀羅尼経があるということは、神仏分離前の柏原八幡宮密教系の祭儀を行っていたのだろう。現在の乗宝寺は、高野山真言宗に属している。

 神仏習合は、奈良時代には既に行われ始めていたそうだ。明治新政府神仏分離令まで、約1100年間日本に根付いていた。

 明治以後の神仏分離した日本の信仰の形が、奈良時代以前の日本古来の純粋な信仰の形なのか、それとも奈良時代から江戸時代までの神仏習合が日本の真の伝統なのか、答えは出ないだろう。

 しかし寺社に詣でる日本人自身の様子を見ていたら、そんなことはどっちでもいいという風である。ひょっとしたら、日本人の根本にある信仰の対象は、実は神仏以前のものなのかも知れない。