追手神社の参拝を終え、丹波篠山市と丹波市の境を越え、丹波市柏原(かいばら)町に向かった。
この地は、明治まで柏原藩織田家が治めていた。この織田家は、あの信長の子孫の家である。
柏原町柏原には、柏原藩の政庁だった国指定史跡柏原藩陣屋跡がある。
柏原藩織田家は、慶長三年(1598年)に、信長の弟・信包(のぶかね)が、丹波国氷上(ひかみ)郡を所領としたのが始まりである。
信包は兄信長に信頼され、織田軍団の重鎮として活躍した。本能寺の変の後は、秀吉に従い、伊勢国津15万石の領主になったが、小田原攻めの際に北条氏の助命を秀吉に乞うたため、秀吉の不興を買って、柏原3万6千国に減封された。
徳川の時代になった後の慶安三年(1650年)、三代目織田信勝の死去と共に家は断絶し、一度柏原藩織田家はなくなった。
その後、元禄八年(1695年)、信長の次男・織田信雄の玄孫・織田信休(のぶやす)が大和松山藩から柏原に入り、藩主となる。言うなれば、第二次柏原藩織田家である。
正徳四年(1714年)、信休は現在陣屋跡が残る場所に柏原藩陣屋を建設する。
長屋門は、建設当時から唯一残る遺構である。
概ね2万石以下の小藩主は、城を持つことを許されなかったので、政庁として陣屋を構えた。
柏原藩陣屋跡は、かつての陣屋跡に実際に陣屋の建物が残っている全国的にも珍しい例のため、昭和46年に国指定史跡となった。
かつての柏原藩陣屋には、表御殿、中御殿、奥御殿があった。
文政元年(1818年)に、建設当初の御殿は火災で焼失した。文政三年(1820年)、表御殿の一部が再建された。
上の柏原藩陣屋再現模型の写真の画面右下が長屋門で、長屋門を潜った正面が表御殿の玄関である。
玄関前の砂利を踏みしめて、建物に近づく。檜皮葺の玄関破風は、大名建築らしい堂々としたものである。
また、表御殿の南側には、ちょっとした庭園がある。近代になって整備されたものだろう。
側面から見る陣屋跡も、いかにも武家の建物という風格があっていいものである。明治以降の和風建築は、この武家の建物を模しているように思える。
玄関から建物内に入る。陣屋なので、戦うための城ではない。簡素で広々とした和室が広がる。
上段の間は、政務中の藩主が居た部屋だろう。機能的で質朴な小藩の日常業務が偲ばれる。
ここは昔の「役所」だろうが、いつの時代も役所的な質朴さはいいものだ。
建物内には、誇らしげに織田家の家紋の入った陣幕が張られている。
江戸時代に柏原藩織田家の主君であった徳川家は、元はと言えば織田家の同盟相手である。実は自分たちは、徳川家と同格だという思いが、柏原藩織田家にあったものか。
表御殿の北側には、かつての御殿の部屋割りが、区割りされたコンクリートで表示されている。
今の表御殿の北半分は、昭和に入って改築されたもので、昭和の木造小学校の校舎みたいで、不思議と懐かしい気持ちになった。
ところで、柏原藩陣屋跡の目の前には、柏原歴史民俗資料館がある。
柏原歴史民俗資料館には、柏原藩や織田家に関する資料が展示されている。内部は写真撮影禁止だったので、写真では紹介できない。
また、資料館は、柏原が生んだ俳人・田(でん)ステ女の記念館も兼ねている。
ステ女は、寛永十年(1633年)に柏原に生まれ、六歳の時に、「雪の朝 二のじ二のじの 下駄のあと」という俳句を詠んだという。
ステ女は、長じて北村季吟の弟子になった。松尾芭蕉も季吟に師事していたので、ステ女と芭蕉は姉弟弟子ということになる。
ステ女は、元禄四俳女の一人と言われたが、42歳で夫に先立たれ、剃髪出家した。盤珪禅師と出会い、晩年は尼僧として播州網干で過ごした。
柏原藩の歴史を見ると、その領内運営は紆余曲折があったようだ。しかし明治に入って、全国のほとんどの陣屋が取り壊されるなかで、柏原藩の陣屋が残されたのは、住民に惜しまれる何かがあったからだと思われる。