弥生時代に田を耕すのに使われていた鋤、鍬といった道具は、木製品であった。
木製品には、硬い樫の木が使われた。いかに硬い木を使っていたとしても、金属器の方が遥かに作業能率が上だろう。
当時の農業は、大変だったろう。
弥生時代の田は、現代の田よりも面積が小さかった。
当時は、広い面積に一定の高さの水を張るのが難しく、地形に沿って田を作らなければならなかった。そのため、必然的に田は小さくなった。
水稲耕作をするには、田に水を導き入れる水路も張り巡らさないといけない。
水路を掘り、畔を築いて田を作り、田の中に水を張るにも技術がいる。
水を張った水田には、田下駄や大足という道具を使って入ったようだ。
さて、秋になると実った稲は収穫される。
稲穂の収穫に使われるのは、石包丁である。石包丁には2つ穴が開いているが、ここに紐を通して手で持ちやすいようにしていたようだ。
石包丁は、穂先を切り取るために両刃を備えている。勿論金属の包丁と比べ、切れ味は劣る。
刃を作るには、研磨という工程が必要である。研磨されて作られた石器は、磨製石器と言われるが、農業を成立させるには、磨製石器の登場が不可欠であった。
収穫された稲穂は、田舟という舟型の入れ物に入れていった。
収穫された稲は、土器に入れられて、高床式倉庫や穴蔵に入れて保存された。
ネズミなどが稲を食べないように工夫したことだろう。
狩猟採集生活は、その日食べるものをその日入手して消費することが多かっただろうが、農業が開始されたことにより、人類は、生産物を蓄えることが出来るようになった。
ここに、財産という概念が発祥した。
自分が食べる以上のものを生産できるようになって、初めて財産を蓄えることが出来る。
他人の生産物を収奪すれば、より財産を蓄えることが出来る。階級や戦争が誕生した。
農業は、人の世界に争いの種をも撒いたのである。
稲を蓄えたり、米を煮るのには土器が使われた。
煮るのに用いられた土器には、黒く炭の跡が着いている。
特徴があまり見えない弥生土器だが、地域によって言葉が少しづつ違うように、弥生土器にも地域差があったようだ。
大和の纏向遺跡からは、畿内だけでなく、東海、北陸、山陰、山陽などの各地域の土器が発掘されている。日本最古の王都と言われる纏向遺跡が、日本各地と交易していた証拠とされる。
だが纏向遺跡からは、当時の先進地域の北部九州の土器だけが発掘されないという。これは謎である。
土器の地域性が分かれば、こういうことも分かってくるのである。
貯蔵されていた稲を食べるときは、木臼に入れて杵で突き、脱穀した。
脱穀された米を土器に入れて煮て食べたのだろう。
では弥生時代の衣食住のうち、衣はどうだったのか。
タイマ(大麻)やカラムシ(苧麻)といった植物の繊維を柔らかくして撚りをかけ、糸にした。
撚りをかけるのに、紡錘車が使われた。
紡錘車によって作られた糸は、原始機(はた)を使って布に仕上げられた。
機織りは、女性の大切な仕事だった。
こうして麻布が作られ、縫い合わせられて衣服になった。
弥生時代には、稲作をする傍ら、衣服や土器、石器、木器を作る作業も重要な仕事として行われていた。
全て、食べて生きていくための生業である。
さて、第2展示室には、明治から戦前にかけての農家の居宅を再現したものや、農業用具が展示されていた。
近代になると、板の上に莚が敷かれている。土の上で生活していた竪穴住居より格段の進歩である。
ただ、畳はまだ高級品だったようだ。一般の農家には敷かれていない。
津山弥生の里文化財センターの二階には、民俗資料収蔵庫がある。明治大正昭和前期に使われたこの地方の民俗資料を収蔵展示している。
笠や蓑も展示されている。
笠は雨や雪、直射日光を防ぐための被り物で、蓑は稲わらなどの植物を編んで作られた昔の雨衣である。いわば昔のカッパだ。衣服の上から着用した。
旅に生涯を費やした松尾芭蕉は、笠と蓑が好きだった。この粗末な防雨具を携えて、全国を歩いて俳句を作った。
芭蕉が笠と蓑を着けて旅していたのを知ってから、私は笠と蓑に心惹かれるようになった。自分も笠と蓑を着けて歩いて旅をしたいと思うようになった。
さて、笠や蓑だけでなく、縄や米俵などの細工物にも植物が用いられていた。
弥生時代の道具や住居は、木や石や土や茅などで作られていた。自然素材で生活の全てのものが賄われていたのだ。
石油由来の化学繊維などの製品が普及するまでは、近代に入っても自然素材が生活用具に使われていた。
現代人から見たら、耐久性がなく不便なものかも知れないが、こうした自然素材から作られた道具を見ると、懐かしい気持ちになる。