岡山県赤磐市周匝(すさい)にある山城の遺構が、周匝城跡である。
周匝城は、茶臼山城とその奥の大仙山城の2つの連続した山城の総称である。
茶臼山城を築城したのは、浦上宗景の家臣だった笹部勘次郎だとされている。勘次郎は、天文二年(1533年)ころに、尼子氏の侵攻に対抗するため、この美作と備前の間の交通の要衝だった周匝の地に聳える茶臼山に築城した。
茶臼山は、標高約170メートルの低山である。城跡は昭和60年に発掘された。
今は山上には昭和61年に復元された天守が聳えている。
城跡公園までは、道路が続いており、車で上がることが出来る。
茶臼山城の復元天守の中は資料館のようになっており、昭和60年の城跡発掘調査で出土した遺物が展示されている。
茶臼山城は、宇喜多直家の攻撃により陥落し、江戸時代になって、岡山藩池田家の所領となった。
茶臼山の麓に岡山藩の陣屋が建てられた。陣屋の西門に載っていた鬼瓦などが展示してあった。
天守からの眺めは雄大である。ここからならば、確かに北や南から来る敵をよく眺めることが出来る。
城跡公園には、かつてここにあった大型竪穴遺構が復元されていた。
この竪穴遺構は、深さ4.5メートルで、竪穴からは炭、焼き土、灰とともに備前焼や鉄製品、陶磁器、古銭などの室町時代中期の遺物が出土した。
この竪穴は、2本の大きな柱を根本柱としていたようだ。人が居住できるスペースもあり、物資の貯蔵場所を兼ねた居住施設であったと思われる。
上の居住施設から竪穴の底に降りる梯子も復元されている。何だか秘密基地っぽくて面白い。
笹部勘次郎は、天正五年(1577年)に、宇喜多直家が主君浦上宗景を天神山城に攻め滅ぼしたことから、宇喜多軍の北侵に対抗するため、茶臼山城の北西側の尾根に防御機構を作った。これが大仙山城である。
茶臼山城と大仙山城の城郭を総称して周匝城と言うが、この2つの城を統合したら、かなり巨大な山城になる。
大仙山城に行く途中には、箱状に掘られた箱堀や、堀切、土塁などのお馴染みの山城の防御設備があった。
しばらく進むと、城の入り口の虎口がある。その奥には、本丸跡があるが、少し高台になっているだけで、ここが本丸だったことを示すものはない。
天正七年(1579年)に、周匝城は宇喜多直家の攻撃により陥落し、廃城となった。
その後、寛永九年(1632年)に池田光政が岡山藩主として入封した際、家老池田長明に2万2千石を与えて周匝に配置した。
長明は、茶臼山の東南麓に陣屋を築いた。
今はその陣屋はなく、その場所に八幡宮が建っている。
周匝領主池田家の墓所は、茶臼山上にある空(そら)のお塚と、八幡宮西側の新のお塚の2カ所にある。
長明の父長政を初代として、空のお塚には2~7代の、新のお塚には初代、8,9代の墓が並んでいる。
麓にある新のお塚は荒れ果てていて、周りの雑草が伸びていて、見つけるのに難儀した。
九代池田長貞の墓などは、墓石が倒れていた。
今回見学した周匝城跡は、なかなか大きな山城であるが、山上まで車で上がることができ、茶臼山城から大仙山城までの山道も平坦で歩きやすい。
いま日本に残る著名な城は、大半が平地に築かれた平時の城である。山城はまだ合戦が盛んだった時代の産物である。
山城で建物が残っているものはほとんどない。わずかに残る石垣や土塁や堀切などに戦国の残り香を感じることが出来る。
古墳もいいものだが、山城もいいものである。