天神山城跡 中編

 天神山城は、尾根沿いに防御施設が続いている。

 参考までに、前回と別の鳥瞰図を掲載する。

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天神山城鳥瞰図

 下の段の次の西櫓台には、城の西方にある佐伯平野を見張るための櫓台があった。確かに西櫓台のあった場所から西方を望むと、佐伯平野が一望できる。

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西櫓台から望む佐伯平野

 かつては、この西櫓台に、背の高い櫓が建っていたことだろう。

 西櫓台の上には、三の丸があった。今は、石垣の残りと思われる石が転がるのみである。

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三の丸跡

 三の丸には、重臣の館が置かれていたようだ。城の機構からすれば、三の丸は外郭であった。

 三の丸から上がると、城の拡幅工事に必要な道具の製造・修理や、武器の確保のために必要な鍛冶職人を常駐させていた鍛冶場があり、その東には城郭最大の曲輪であった桜の馬場と大手門の跡がある。

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鍛冶場から大手門、桜の馬場方面を望む

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桜の馬場の石碑

 桜の馬場周辺は、広い削平地になっている。馬場というくらいだから、かつてはここで馬を使った訓練が行われていただろう。

 更に進むと、鉄砲櫓、武器櫓、食糧櫓といった倉庫が置かれていた長屋の段と呼ばれる段がある。人工的に盛り土されているのが分かる。

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長屋の段

 ところで、天神山城を拠点とした浦上宗景は、尼子氏に付こうとした兄の政宗と決裂し、兄弟で勢力争いをするようになる。

 宗景は、毛利氏の援助を受け、政宗を凌ぐ勢いを見せて備前を制圧し、更に美作に兵を進めた。その後毛利氏と断交して独立し、戦国大名化する。

 永禄十一年(1568年)には、備前の有力国人松田氏を滅ぼし、備前のほぼ全域と美作の一部を手中に収める。

 永禄十二年(1569年)には、播州龍野城赤松政秀を降伏させ、播州西部を吸収する。翌元亀元年(1570年)には、備中南部に侵攻する。

 浦上宗景の躍進を支えたのは、宗景の家臣で、岡山城主だった宇喜多直家である。

 宗景は、天正元年(1573年)には、信長から備前、播磨、美作の所領の朱印状を与えられ、この三国の支配権を認められる。

 この辺りが宗景の最盛期である。今残る天神山城の遺構も、このころまでに整備されたものである。

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二の丸側から本丸を望む

 宗景は、かつての主家である赤松氏の所領の支配権を信長に認められたわけだが、これには赤松家の旧家臣の小寺氏などが反発した。なぜ元々赤松家臣という同列の立場だった浦上家の下風に立たねばならぬのか、ということだろう。

 そこにつけこんだのが宗景の有力家臣であった宇喜多直家である。天正二年(1574年)、直家は宗景から離反し、大挙東上してきた毛利氏と結んで浦上氏を攻め始めた。

 これが天神山城合戦である。

 天正五年(1577年)、宗景の家臣が次々に離反して宇喜多側についたため、天神山城は落城し、宗景は播磨に逃げた。

 信長の播磨征討軍の大将だった秀吉は、当時まだ播磨のあちこちで毛利側についた諸将と戦っていて、とても浦上氏に援軍を送ることが出来なかった。

 本丸に上がると、「浦上遠江守宗景之城址」と彫られた石碑が建っている。

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 本丸には、天津社の祠が残っている。覆屋が傾いて倒れそうである。

 本丸のすぐ東には、宗景の重臣明石飛騨守景親の屋敷跡のあった、飛騨の丸がある。本丸のすぐ隣にあるため、明石景親が相当な重臣だったことが分かる。

 飛騨の丸には、野面積みの石垣が残っている。

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野面積みの石垣

 天神山城跡には、石垣がほとんど残っていないため、貴重な遺構である。
 飛騨の丸の東側には普段馬を飼育していた場所である馬屋の段があり、その東には南櫓と南の段がある。ここから更に東は、旧天神山城である太鼓丸の遺構となる。

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南の段と南櫓

 こうして調べてみると、浦上宗景は、なかなかいい線を行った戦国大名であった。しかし、東から勢力を伸張させてきた織田と、西から伸張してきた毛利の2大勢力に挟まれ、どちらかに付くことを迫られ、織田に付くタイミングを誤って滅んでしまったように見える。
 歴史は、様々な運命の綾糸が織り成す物語と言っていい。浦上家が滅んでしまったのも、運命の必然だったのだろう。

 天神山城跡は、浦上宗景一代の興亡の舞台となった城跡である。野望ついえた戦国大名の遺構を歩くと、思わず凄愴とした気分になる。