医王山薬仙寺

 清盛塚・琵琶塚から南に歩き、運河にかかる橋を渡るとすぐ左手に時宗の寺院、医王山薬仙寺がある。

 薬仙寺は、天平十八年(746年)に行基菩薩が開いたと伝えられている。行基は、大輪田の湊を築いた人物である。交通の要衝大輪田の湊の傍にこの寺院を開いたのだろう。

 承元元年(1207年)に法然上人が讃岐に配流される際、当寺に立ち寄り、民衆を教化したという。当ブログでは、法然上人が讃岐に渡る際に立ち寄った寺院として、今まで高砂市十輪寺たつの市室津浄運寺を紹介した。

 兵庫も高砂室津も、古代から湊として栄えた地である。

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医王山薬仙寺

 ところで私が時宗の寺院を訪れるのは初めてである。

 時宗は、鎌倉時代後期に一遍上人智真が開いた念仏系の宗派である。伊予の豪族河野氏の子息だった一遍は、母の死をきっかけに世の無常に目覚めて出家し、全国を遊行した。

 善人悪人、信心の有無にかかわらず南無阿弥陀仏を唱えれば救われるという至ってシンプルな教えを説いて回った。

 一遍が広めた踊り念仏は、踊りながら念仏を唱えるというもので、聞くだけでちょっと楽しそうであり、素朴な庶民に受け入れやすかっただろう。

 薬仙寺は、昭和20年の神戸大空襲で伽藍が焼失した。今建つ本堂は鉄筋コンクリート製のものである。

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本堂

 本堂には、御本尊の薬師如来坐像と脇侍仏の長谷試(はせこころみ)十一面観世音立像が祀られている。

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本堂の厨子

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御本尊と脇侍仏

 薬師如来坐像は、平安時代の作で、国指定重要文化財となっている。

 脇侍仏の長谷試十一面観世音立像は、その名の通り、大和長谷寺の観世音菩薩立像の試作仏との伝承がある。弘安元年(1278年)の墨書銘があるという。

 確かに長谷寺の十一面観世音菩薩像と同じく、右手に錫杖を持っている。もし長谷寺の十一面観世音菩薩像の試作品なら、なぜこの寺に納められたのか由来が知りたいものだ。

 薬仙寺の境内には、様々な石碑や記念物が置かれている。

 先ずは、花山法皇の歌碑である。

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花山法皇歌碑

 花山法皇は、第65代天皇だったが、19歳で退位し、出家して、今の兵庫県三田市にある花山院に隠棲した。

 大輪田の湊を好んだ法皇は、たびたびこの地を訪れた。

 歌碑には、法皇が花山院に近い有馬富士を詠った、

有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かと聞けば 小野の松風 

 の歌が刻まれている。古碑のため、字の判別が難しい。

 その隣には、詠歌踊り念仏連名の石碑が建つ。

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詠歌踊り念仏連名碑

 右が万延元年(1860年)、左が嘉永五年(1852年)に建てられた碑である。

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嘉永五年の碑

 一遍上人は、この兵庫津で没したが、そのためか兵庫津周辺は、踊り念仏が盛んであった。

 江戸時代には、福原西国霊場巡拝も盛んになり、御詠歌と踊り念仏がミックスした詠歌踊り念仏が誕生した。詠歌踊り念仏は、兵庫の娯楽的な庶民芸能となった。

 この石碑には、幕末の詠歌踊り念仏の愛好家だった兵庫津の有力町人や夫人たちの名前が刻まれている。

 その隣には、「大施餓鬼会日本最初之道場」と刻んだ石碑がある。

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大施餓鬼会日本最初之道場の碑

 日本最初の施餓鬼会が、この薬仙寺で行われたというのだろうか。

 その隣には、萱の御所跡の碑がある。

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萱の御所跡の碑

 萱の御所は、後白河法皇平清盛に幽閉された場所で、元はここから北東約100メートルの地にあった。昭和29年の新川運河拡張工事に際し、薬仙寺に石碑が移された。

 伊豆に配流されていた源頼朝と出会った文覚上人は、萱の御所に忍び込んで後白河法皇に会い、平家追討の院宣を賜ったという。

 その隣には、福原地区空襲被災者供養塔がある。戦前の福原には、大遊郭があったが、これも神戸大空襲で焼失した。遊郭で働く娼妓達も空襲で多数焼死した。それら被災者を供養する石碑である。

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福原地区空襲被災者供養塔

 その隣には、巨大な黒御影石で作られた神戸大空襲犠牲者慰霊碑がある。

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神戸大空襲犠牲者慰霊碑

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 昭和20年3月17日の神戸大空襲では、神戸市街の大半が焼失した。造船所のあった兵庫区に対する米軍の空爆は激しく、当時の神戸最大の繁華街新開地や、遊郭街福原は焼夷弾によって発生した火災で消滅した。

 この空襲による犠牲者は、約1万人だという。

 昭和50年3月16日にこの慰霊碑が完成し、その後毎年3月17日にはこの慰霊碑の前で慰霊祭が執り行われる。

 戦争の是非はどうあれ、昔大きな戦争があり、数多くの人が亡くなったことは記憶に留めおくべきであろう。

 その隣には、後醍醐天皇御薬水薬師出現古跡湧水の井戸がある。

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後醍醐天皇御薬水薬師出現湧水

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 隠岐島に流されていた後醍醐天皇が、京に還幸の途中、兵庫津の福厳寺で病床に臥した。薬仙寺住職が、この井戸に湧いた水を天皇に献上したところ、天皇の病はたちまち癒えたという。

 その隣には、石造十三重塔がある。いつの時代のものかは分からない。

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石造十三重塔

 石造十三重塔の隣には、当月17日の記事で紹介した大輪田橋の戦災・震災復旧モニュメントがある。

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大輪田橋戦災・震災復旧モニュメントのプレート

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大輪田橋戦災・震災復旧モニュメント

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 昭和20年3月17日の神戸大空襲で家から焼け出された市民が、大輪田橋上に避難したが、火炎旋風は橋上をも襲い、橋上に避難した市民の多くが焼死した。

 また平成7年1月17日の阪神淡路大震災では、大輪田橋の親柱が倒壊した。大輪田橋の親柱は、一時薬仙寺で保管されていた。

 神戸を襲った2つの戦災、震災を記憶に留めるため、平成10年に薬仙寺にあった大輪田橋の石材を使って、モニュメントとして残すことになった。

 モニュメントには、この2つの災害の日付が刻まれている。両方17日に発生しているが、偶然だろうか。
 人が生きていく上で、災害は避けて通ることは出来ないが、今後発生する災害での犠牲が、なるべく少なくなることを祈るばかりだ。