大和大国魂神社の参拝を終え、三原川沿いに西に向かう。
南あわじ市松帆江尻の集落に入る。集落の東側にあるのが、浄土宗の寺院、江善寺である。
この江善寺の境内に、兵庫県指定重要有形文化財の高麗陣打死衆供養石碑がある。
この碑は、文禄の役に際し、江尻から水兵として徴集され、朝鮮半島沖の海戦で戦死した者たちを供養するために建てられた石碑である。
太閤秀吉は、天下統一後、中国大陸の征服を計画する。
隣国の朝鮮王国に日本への服属と中国への道案内を頼んだが、明を宗主国と仰ぐ朝鮮はこれを断った。秀吉はまず朝鮮半島を制圧することを目論む。
文禄元年(1592年)、秀吉の命令で、日本軍15万8千人が釜山に上陸した。加藤清正と小西行長を大将とする陸戦部隊は破竹の勢いで進撃し、首都京城を陥れ、平壌も攻略した。
洲本城主脇坂安治、志知城主加藤嘉明は、地元から水兵を徴集し、水軍を編成して朝鮮南岸海域で作戦に従事して、初戦で朝鮮水軍を撃破した。
しかし、全羅道水軍節度使李舜臣率いる朝鮮水軍部隊が出動してから、日本水軍の制海権は分断された。
文禄元年七月七日に発生した閑山島沖の海戦で、脇坂水軍は李舜臣率いる朝鮮水軍に苦戦し、長時間の激闘の末、39隻の船を失い、多数の戦傷者を出した。
この時江尻出身の水兵も30名が戦死した。この石碑には、南無阿弥陀仏の名号と、細い字で戦死した30名の水兵たちの法名、命日を刻んでいる。
境内には、また殉国碑という石碑があった。
こちらの石碑には、大東亜戦争で戦死した江尻出身の兵士の階級と名が刻まれている。
偶然かもしれないが、兵士の名を数えてみると、こちらも30名であった。
地元の土を踏むことが出来ずに異国で果てた兵士たちの冥福を祈りたい。
江善寺から北上し、倭文川を越えた松帆櫟田の集落にあるのが、産宮(うぶのみや)神社である。
産宮神社は、第18代反正(はんぜい)天皇が産まれ、産湯に浸かった場所という伝説が残る神社である。
淡路南部に広がる三原平野は、古代には御原の御狩野と言われ、皇室の狩猟地であったという。
第16代仁徳天皇が、この地に仮宮を建てて遊猟を行っていた折、皇后磐之媛(いわのひめ)が反正天皇を出産した。
そして清水湧き出づる瑞井の水を産湯として使ったという。
境内には、今も反正天皇の産湯に使われたという瑞井がある。
反正天皇は、歯が美しく生え揃っていたので、多遅比瑞歯別(たぢひみずはのわけ)
という名で呼ばれた。
産宮神社は、中世には近くの浄土宗寺院の日光寺の鎮守となり、祭神の反正天皇に天照大神が合祀れた。
江戸時代には、徳島藩主蜂須賀家の崇敬が篤く、寛文十二年(1672年)には本殿が再建され、その後何度も造営された。
今の拝殿は、昭和60年に再建されたもので、鉄筋コンクリート製である。
拝殿の中に、昭和15年の拝殿の写真と、建て替えられる前の昭和60年に写された木造拝殿の写真がある。
写真を見ると、拝殿前の灯篭と狛犬は今と変わりがないようだ。時間の経過を見るというのは、面白いものだ。
5世紀前半には仁徳天皇の3人の子が天皇になった。第17代履中天皇、第18代反正天皇、第19代允恭(いんぎょう)天皇である。
允恭天皇の子の第21代雄略天皇は、「日本書紀」で大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)天皇と呼ばれている。
雄略天皇は、「宋書」に記載された倭王武や、辛亥年(471年)の銘のある埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣に刻まれたワカタケル大王と同一人物とされ、ほぼ確実に実在視されている天皇である。
雄略天皇の親世代である反正天皇や、祖父世代である仁徳天皇も、記紀に近い形で活躍した天皇であろう。
仁徳系の天皇は、第25代武烈天皇で断絶する。その跡を継いだのは、仁徳天皇の父、応神天皇の5世の孫で、越前にいた男大迹王(おおどのおおきみ)、即ち第26代継体天皇である。
継体天皇の系統がその後皇室として君臨し、記紀もこの系統の政権によって書かれたが、断絶した仁徳天皇以下10代の天皇の事績も、詳しく記紀に書いてある。