静思堂から国道426号線を東進する。国道426号線は、兵庫県豊岡市から京都府福知山市までつながっている。
江戸時代にはこの道は、京街道と呼ばれた。出石藩や豊岡藩の大名行列は、この道を通った。
兵庫県豊岡市但東町久畑(くばた)は、江戸時代には宿場町であった。大名は参勤交代の途次に久畑の陣屋に宿泊したことだろう。
また久畑には、江戸時代まで久畑の関所と呼ばれる関所があった。
元治元年(1864年)に発生した蛤御門の変(禁門の変)で敗れた長州藩士桂小五郎は、京を離れ出石の町を目指して京街道を西下した。
この久畑の関所で、危うく見破られそうになったが、無事に通り抜けることが出来た。
久畑の関所跡には、桂小五郎の歌碑と、維新史跡と刻んだ石碑が建っている。
また維新史跡の碑の脇には、安永四年(1775年)に刻まれた庚申塔があった。何ともほのぼのとした味のある石仏だ。
庚申は、昔から町の入り口に守り神として建てられた。
長い間この地域を見守ってきた石仏である。桂小五郎がここを冷や冷やしながら通過した時も、この庚申塔はここでその様子を見ていたことになる。
庚申塔の奥には、「大金光明王」と刻まれた石塔と不動明王像があった。
こちらの石塔と不動明王像はそう古くはないだろう。
史跡巡りを今までしてきて気づいたが、今に残る石仏のほとんどは、江戸時代中期以降に造られたものが多い。
室町時代以前の石造美術品は、宝篋印塔や石造五輪塔などが大半である。独立した石仏は、出現が遅い。なぜだろう。仏像を外に置くのは畏れ多いという考えがあったのだろうか。
久畑の関所跡から西に行くと、地域の鎮守の一宮神社がある。
一宮神社の参道脇にも、弘法大師像など、やさしい表情の石仏がある。
この一宮神社には、地元から満州開拓団として編成されて渡満したが、昭和20年8月に満州に侵攻してきたソ連軍に追われて、ホラン河に身を投げて集団自決した345人の殉難者の碑がある。
昭和19年3月、満州開拓の国策のため、旧出石郡高橋村出身者476名で大兵庫開拓団が編成され、朝鮮半島を経由して満州国浜江省蘭西県に入植した。
しかし開拓団の中の男子は、戦況悪化から現地で兵士として徴集された。残った女性や子供が開拓地を支えた。
昭和20年8月9日、日ソ中立条約を破ってソ連軍が満州に侵攻してきた。
村に残された婦女子たちは、ソ連軍から逃れるため、8月14日より三日三晩不眠不休で満州の大地を逃げ回った。
しかし昭和20年8月17日、追い詰められた345人の入植者は、ホラン河に身を投げて集団自決した。
昭和28年3月、殉難者の地元にある一宮神社の本殿左手に、殉難者345名の名前を刻んだ殉難者之碑が建てられた。
当時の日本では、生きて敵の虜囚になるのは恥とされた。また女性は敵兵から貞操を奪われるのを何よりも恐れた。彼らはそのため自決という道を選んだ。
大兵庫開拓団の殉難は、満州開拓史の中で特筆すべき悲劇であろう。
遠い満州の地で、日本の土を踏むことを望みながら亡くなった人々の冥福を、心より祈りたい。