和田岬砲台 大輪田橋 清盛塚・琵琶塚

 今までの史跡巡りで、幕末に築かれた舞子砲台と松帆砲台を紹介したが、神戸市兵庫区和田崎町1丁目の三菱重工業神戸造船所の敷地内にも、幕末に築かれた砲台の一つである和田岬砲台がある。

 和田岬砲台を管理する三菱重工業神戸造船所は、海上自衛隊が使用する護衛艦や潜水艦を建造しており、我が国の安全保障上非常に重要な場所である。

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三菱重工業神戸造船所のビル

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三菱重工業神戸造船所入口

 軍事技術の粋である潜水艦を建造している場所だけに、セキュリティーもしっかりしており、敷地内にある和田岬砲台も、気軽に見学することはできない。

 見学には基本的に事前予約が必要だが、現在はコロナウイルスの影響で見学を中止しており、和田岬砲台を見ることは叶わなかった。

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和田岬砲台の石堡塔(三菱重工業のホームページ掲載の写真)

 和田岬砲台は、文久三年(1863年)に勝海舟らによって設計・建造され、元治元年(1864年)に完成した。 

 砲台は、石堡塔とその周囲を巡る星型の土塁で出来ていたが、今は星形の土塁はなくなっているそうだ。

 石堡塔の外郭部は、瀬戸内海塩飽諸島御影石を用いて築かれており、内部は木造二階建てになっている。

 1階には弾薬庫と砲身冷却用の井戸があり、2階と屋上には大砲を設置する砲門が造られている。

 第14代将軍徳川家茂や、一橋慶喜もここを訪れたことがあるらしい。

 実際に砲が設置されることはなかったが、幕末の同様の遺構の中で、石堡塔内部の構造物が完存しているのは和田岬砲台しかなく、貴重な幕末の遺物である。

 和田崎町を後にし、神戸市兵庫区出在家町2丁目から芦原通1丁目にかけて架けられている大輪田橋に行く。

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大輪田

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 大輪田橋は、大正13年1924年)に竣工した石造の橋である。橋の三重のアーチが美しい。あと3年で、竣工してから100年になるわけだ。

 この橋は、竣工してから2度の大きな災害に遭遇している。

 一度目は、昭和20年3月17日の神戸大空襲である。

 空襲で神戸市街は一面が火の海となり、大輪田橋上に、火炎の渦を避けるため、多くの市民が避難してきたが、その多くが火に巻き込まれて亡くなった。橋周辺だけで、一晩で500名近い人が亡くなったという。

 大輪田橋は、今でも橋の一部が黒く変色している。空襲による火災の名残と思われる。

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黒く変色した欄干

 二度目の災害は、平成7年1月17日の阪神淡路大震災である。この地震で、橋は崩落しなかったが、橋の四隅に建っていた親柱が4本とも倒れてしまった。

 倒れた親柱は、災害復旧の邪魔になるので処分されそうになったが、橋に愛着を持つ地元住民の要望で、近くの薬仙寺で保存されることになった。

 平成10年に、親柱の内の1本が、震災モニュメントとして元の場所に建てられた。

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復元された親柱

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 そして復元された親柱の横には、震災の時に倒れて真っ二つに折れた親柱が横たえられることになった。

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折れた親柱

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折れた親柱の説明板

 大輪田橋の4本の親柱の内、残り3本は欠如したままである。神戸を巨大地震が襲った記憶を残すため、橋はこれからもこのままの状態で置かれることだろう。

 神戸の史跡を巡って感じるが、阪神淡路大震災ももはや歴史の中の出来事になってしまったようだ。

 平成7年当時は、今ほどインターネットも普及しておらず、携帯電話もあまり普及していなかった。携帯電話にカメラ機能も付いていなかった。カメラもフィルムが主流で、ハイビジョンもなく、リビングではVHSが使われていた。

 平成に入っていたが、生活様式としては、あの当時はまだ戦後の昭和の延長上にあったと言っていい。       

 この震災を境に、日本の建築基準も厳しくなったのだから、確かに時代を画する災害だったと言えるかもしれない。

 大輪田橋を西に向かって歩き、橋を渡りきると、道路わきに清盛塚石造十三重塔と琵琶塚の石碑が見えてくる。

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清盛塚・琵琶塚

 今清盛塚・琵琶塚がある場所は、地名で言えば神戸市兵庫区切戸町1丁目になる。

 清盛塚石造十三重塔は、大正時代までは、今の場所から南西約11メートルの場所にあった。今片側2車線の道路が通る場所である。

 大正12年の道路拡張工事に伴い、塔を移動させることになった。

 この十三重塔は、地元では古くから平清盛の墳墓としてきたが、調査したところ、地下に人骨は埋まっていないことが分かったので、移動させたそうだ。

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清盛塚

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石造十三重塔

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 平清盛の墓石とされてきた石造十三重塔の台石には、「弘安九年(1286年)二月日」の銘が彫られている。執権北条貞時が建てたものとされている。

 思えば鎌倉幕府の実権を握った執権北条氏は、平氏の血統である。平家滅亡から百年経って、少しづつ平家一門の顕彰を行ったのだろうか。

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弘安九年二月日の銘

 清盛塚石造十三重塔は、兵庫県指定文化財となっている。その横には、昭和47年に建てられた清盛の銅像がある。神戸出身の彫刻家柳原義達の作である。

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平清盛

 出家した僧形の清盛像だ。

 清盛塚が大正時代に今の場所に移転される前、清盛塚の北西には、琵琶の形をした墳墓があったという。前方後円墳があったのだろう。

 この墳墓は琵琶塚と呼ばれ、江戸時代以降、琵琶の名手だった平経正の墓と信じられるようになった。経正は、清盛の弟経盛の長男で、一の谷の合戦で戦死したという。

 明治35年(1902年)に、地元有志が琵琶塚の近くに石碑を建てた。

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琵琶塚の石碑

 琵琶塚は、大正12年の道路拡張工事で均されてしまい、今はその形はない。清盛塚石造十三重塔とこの琵琶塚の石碑は、その際に現在地に移された。

 史跡巡りをして気づいたが、農村部よりも都市部の方が戦災や災害の被害に見舞われることが多い。それだけ、打撃を受けた寺社も多い。

 しかし、何とか史跡を残して後世に伝えようという人々の願いも強く感じる。

 史跡には、昔からの人々の願いや気持ちが入っている。