東光山花山院菩提寺 前編

 高売布神社の参拝を終え、次なる目的地である兵庫県三田市尼寺(にんじ)にある真言宗の寺院、東光山花山院菩提寺に赴いた。

 この寺院のことは、以後は通称の花山院の名で呼ぶことにする。

 花山院は、東光山の山頂にある寺院である。山頂までは自動車道が延びていて、車で

上がることができるが、麓から歩いて参拝する人も多くいた。

花山院仁王門

 駐車場のすぐ近くに、境内の入口に当たる小さな仁王門がある。

 私が訪れた11月26日は、紅葉の時期であり、境内の楓が美しく彩られていた。

境内の紅葉

 花山院の開基は、白雉二年(651年)のことで、法道仙人が本尊の薬師如来坐像を当山に祀り、当地に流行っていた疫病を平癒させたことが始まりであるという。

 だが、当山が今のように著名な寺になったのは、出家して花山院と呼ばれるようになった第65代花山天皇が、晩年にここを隠棲の地としたことによる。

仁王門の仁王像

 永観二年(984年)に17歳で即位した花山天皇は、寵愛する正室の弘徽殿の女御・藤原忯子(よしこ)が、懐妊中に死去したことに深い悲しみを覚え、忯子の菩提を弔うために、密かに出家を決意した。

 花山天皇19歳、帝位に即いてまだ2年しか経っていない寛和二年(986年)のことである。

 花山天皇の出家の場面は、「大鏡」に描かれている。

仁王門裏の紅葉

 寛和二年(986年)六月二十二日の明け方、天皇が御所から密かに出ようとするのを藤原道兼が手引きした。

 天皇が御所の戸を開けて外に出ようとすると、在明の月がいみじく明るかったので、側にいる道兼に「顕正(けんしょう)にこそありけれ。いかがすべからむ」と尋ねた。

 月が明るくて目立つので、今出家すべきかどうか迷ったのである。

本堂

 道兼は、花山天皇から出家の相談を事前に受けていたので、天皇の日嗣の印である神璽と宝剣を、既に春宮の懐仁親王(後の一条天皇)に渡していた。

 道兼は、「さりとて、とまらせたまふべきやう侍らず。神璽、宝剣渡りたまひぬるに」と、既に神器を春宮に渡した以上は出家を中止出来ないと諫めた。

 その時、月の上に雲がかかった。外が翳る様子を見て、天皇は、出家は成就すると思って御殿を出た。

蟇股の龍の彫刻

 天皇が個人的な感情から、部下たちに内緒で出家するというのは、今では考えられない。

 今と比べて、天皇の在り方もおおらかだったのだろう。

 この花山天皇の出家の場面は、三島由紀夫も好きだったようで、24歳の時に小説「花山院」の中で書いている。

本堂外陣の欄間の彫刻

 さて、出家を遂げた花山天皇は、播磨の書写山圓教寺に居たが、その後比叡山延暦寺で灌頂を受けて得道授戒し、花山法皇(花山院)となった。

 法皇は、奈良時代に徳道上人が、黄泉の国で閻魔大王から授かった宝印を、この世に戻ってから石棺に入れて埋めたとされる観音霊場三十三ケ所を巡礼した。

 この花山法皇が巡礼した寺院が、西国三十三所観音霊場となった。法皇西国三十三所巡礼の中興の祖なのである。

本堂内陣

 花山法皇は、巡礼中にこの東光山を訪れて感じるものがあり、41歳で亡くなるまでの晩年の十数年をこの地で過ごした。

 そのため、東光山菩提寺は、通称花山院と呼ばれるようになった。

 花山院は、西国三十三所観音霊場の番外とされ、古来から西国巡礼をする者は、まずこの花山院に詣でて、巡礼が無事に成就することを願うという。

 本堂内陣の中心には、十一面観世音菩薩立像が祀られている。

十一面観世音菩薩立像

 向かって右には、花山法皇の木像が祀られている。

花山法皇の木像

 東光山の麓には、法皇を慕ってやってきた宮中の女官が尼僧となって住み着いた。

 当時は、女人は修行の山に入ることが出来なかったので、麓で尼となって住むしかなかった。花山院のある尼寺(にんじ)という地名は、この尼僧達から来ている。

 花山法皇は、月が明るいからという理由で出家をためらうほど優柔不断な人柄だったが、女官たちが慕って追ってくるほど心優しい人物でもあったのだろう。

 いずれにしろ、花山法皇のおかげで、現代人も含む後世の人々が、西国三十三所巡礼を行えるようになったことは、喜ぶべきことである。