今まで1年3カ月に渡り史跡巡りをしてきた。
私の史跡巡りの案内者は、山川出版社の歴史散歩シリーズで、このシリーズの本に載っている史跡は原則全て訪れるという方針で進めて来た。
また、地理的には、かつての日本の行政単位である「国」を基準にしてきた。
まずは播磨国の史跡を全て訪れることを目的としてきたが、西播磨の史跡を踏破した時点で、備前国と美作国にも足を踏み入れ、東播磨、備前、美作の史跡を順番に訪れていた。
今回紹介する太山寺で、私の播磨国史跡巡りは完了する。つまり「あがり」に来たわけだ。
太山寺は、本堂が国宝に指定された「国宝の寺」でもある。播磨国史跡巡りのあがりが国宝の寺だったというのは、いい巡りあわせだ。特段狙っていたわけではない。気が付いたらそうなっていた。
太山寺は、神戸市西区伊川谷町前開にある。神戸市の内、垂水区と西区の全域と、北区と須磨区の一部は播磨国の領域に入る。この太山寺も、播州の寺である。
太山寺は、藤原鎌足の子・定恵和尚の開山で、鎌足の孫で藤原不比等の子・藤原宇合(うまかい)が堂塔伽藍を建立したと伝えられている。
宇合が明石郡の摩耶谷の温泉で療養中に、夢の中に薬師如来が出現した。薬師如来は、ここより東北に定恵和尚結縁の地があり、定恵和尚が願望を果たせず寂したと伝えた。
宇合は、その地に薬師如来像を安置し、七堂伽藍を建立した。
南北朝の時代に最盛期を迎えたが、その後の度重なる戦乱で寺勢は衰退した。
それでも、鎌倉時代末期に建立された建物が未だに残っている貴重な寺院だ。
山門は、鎌倉時代末期に建てられ、室町時代後期に現在地に移築されたとされている。元々は三間一戸二層の堂々たる建物だったが、移築の際に上層部を撤去し、軒周りも縮小したようだ。
昭和28年の修理の際に見つかった三手先の組物が門の裏側に展示されている。
この組物が軒を支えたことを想像すると、当初は相当立派な山門だったのだろう。
山門から中門までは、石畳の参道が続く。途中、3つの塔頭がある。
龍象院は、茅葺屋根の建物が特徴的だ。
龍象院では、座禅教室などが開かれているようだ。
龍象院の東側には、屋外に石造の不動明王像があり、護摩壇がしつらえてあった。
私は、屋外の護摩行の設備は初めて見た。
成就院には、文化年間(1804~1817年)に庭師天一により作庭された枯山水の庭園があり、兵庫県指定文化財となっている。
公開はされておらず、拝観は出来なかった。
成就院の隣にある安養院には、国指定名勝となっている庭園がある。
安養院の庭園も非公開だったが、門前に写真が掲示してあった。
安養院庭園は、安土桃山時代に作庭されたもので、兵庫県内では最古に属する庭園である。
庭園は、安養院の書院前にあり、周囲の山並みや太山寺阿弥陀堂を借景とし、力強い石組を特徴とする名園であるそうだ。紅葉の時にでも見たいものだ。
さて、中門から太山寺の境内に入る。
中門の向うに見えるのが、国宝の本堂である。
中門を入って右に行くと、兵庫県指定重要文化財の三重塔がある。私が史跡巡りで訪れた15番目の三重塔である。
この三重塔は、心柱の墨書銘から、貞享五年(1688年)に再建されたものと分かっている。内部の仏壇と外部の高欄の形式が、室町時代のものに類似するが、再建時に室町時代のものを再利用したのか、室町時代のものを真似て新たに作ったのか、現時点では判別できないという。
三手先の組物が見事だが、尾垂木の上に乗って軒を支える鬼の像が可愛らしい。
さて、三重塔の内部がこれまた絢爛たる世界だ。
金剛界大日如来とそれを囲む四天王を中心とした、華麗な密教世界だ。
仏像群の周囲を鮮やかな彩色の四柱が囲み、仏像の頭上には折上式の格天井がある。これも一種の立体曼荼羅なのだろう。
私の素人目で見た所、この仏壇と仏像群の彩色と雰囲気は、南北朝期のものに見える。彩色の禿具合でそう感じる。
太山寺は、鎌倉時代には僧兵を多く従え、大塔宮護良親王の令旨に従い、鎌倉幕府打倒のため、赤松円心と共に京都に攻めあがった。
大塔宮は、元々延暦寺の僧侶で、天台座主を務めた。護良親王の令旨には、日本中の天台宗寺院が従ったことだろう。
太山寺本堂が鎌倉時代末期に建ったということは、その時代に鎌倉幕府打倒を記念して、堂塔が再整備されたのではないかと想像する。