神戸市 関帝廟 徳照寺

 花隈城跡から北西に歩き、神戸市中央区中山手通7丁目にある関帝廟に詣でた。

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関帝廟

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山門

 関帝廟は、「三国志演義」に出てくる英雄・関羽を神様として祀る寺院である。関羽は、劉備の腹心として活躍した武将で、「演義」では義侠心に富んだ豪傑として描かれている。

 その信義に厚い人柄からか、中国では関羽はいつしか関聖帝君(関帝)という神様として祀られるようになった。今では華僑が居住する世界各地に関帝廟が建てられ、華僑の心の拠り所になっている。華僑の間では、関帝は商売の神様とされている。

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中門(龍門)

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龍門正面

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中門の格天井

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 神戸の関帝廟は、昭和22年に神戸華僑によって建てられた。

 神戸関帝廟の前身は、黄檗宗の寺院・長楽寺である。長楽寺は、元は大阪布施にあったが、明治21年に廃寺になったため、神戸華僑がこの地に遷した。

 昭和20年の神戸大空襲で長楽寺が焼けてしまったので、その跡地に関帝廟が建てられた。

 道路に面した山門を潜ると、すぐ目の前に中門がある。中門の格天井には、微細な彫刻が施されている。

 また、中門の内部にまた小さな門があり、これまた煩瑣な木彫りの彫刻が施されている。龍の彫刻が施されているため、中門は龍門とも呼ばれている

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龍門

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龍門の彫刻

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 日本人の感覚からすれば、悪趣味とも思えるほどの装飾過多な門だが、よく言うと不屈のパワーを感じる。外国で逞しく生活する華僑の生活力を思わせる。

 黄河龍門の鯉が、龍になるという中国の故事に基づいて台湾で作られた彫刻らしい。

 中門の左右には、一対の石造の唐獅子が置かれている。

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中門の唐獅子

 中門の横には、禮堂が建っている。

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禮堂

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禮堂の窓

 関帝は、道教の神様である。しかし参拝しても、日本の寺社に参拝した時のような厳粛な気持ちにはならなかった。何だかテーマパークに来たような気分である。

 境内には、光緒丁酉年(1897年)と刻まれた石造唐獅子がある。

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光緒丁酉年製造の石造唐獅子

 そして境内の奥に本堂が建つ。

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本堂

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 本堂の屋根の上には、鮮やかな青龍の像が向かい合っている。

 本堂内は写真撮影禁止であった。

 本堂に入ると、中央に長髯の関帝像があり、向かって右に天后聖母像、左に観音菩薩像がある。観音菩薩像があるのは、禅宗寺院だった長楽寺時代の名残だろうか。

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本堂扁額

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本堂の意匠

 関帝廟に飾られた龍や獅子や鳳凰を見ると、日本の寺社建築が中国の寺院建築の影響を受けていることが分かる。

 関帝像の前に立っても、どうも敬虔な気持ちになれない。この関帝廟に流れる文化的な文脈が、私の中の文脈と異なることが分かった。対立する気分になるわけではないが、どうしても宗教的な気分が湧いてこないのである。

 そこから西に歩き、中山手通8丁目にある浄土真宗の寺院、光谷山徳照寺に行った。

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徳照寺

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徳照寺山門

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 徳照寺の寂びた山門を観ると、自分の故郷に帰って来たような気がしてほっとした。

 天正三年(1575年)ころ、ある浪人が出家得度してこの地に草庵を結んだのが徳照寺の始まりだという。

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本堂

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 徳照寺には、国指定重要文化財の銅鍾がある。元は大和国添上郡真言宗の寺院、中川寺成身院の鐘であった。

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徳照寺銅鍾の説明板

 この鐘は、大治四年(1129年)に鋳物師多治比頼友が鋳造したものである。長寛二年(1164年)に尊智上人が改鋳した経緯が陽鋳されている。

 鐘の内部に五輪塔梵字が陽鋳されているらしい。

 徳照寺が天保八年(1837年)に本堂を造営した際、大阪の古道具商から買い入れたものだそうだ。

 史跡巡りをして分かったが、寺社にかかる銅鍾の中には、あちこちの寺社を渡り歩いたり、合戦の際の陣鐘になるなど、数奇な経歴を経たものがある。

 徳照寺の銅鍾もその一つだ。
 本堂前に梵鐘が下がっている。これは、昭和になって鋳られた銅鐘である。

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徳照寺銅鍾

 鐘を撞いてみると、朗々とした音が夕暮れの神戸市街に響き渡った。

 今日は、関帝廟と徳照寺という対照的な二つの寺院を紹介した。

 この二つの場所を訪れたことで、育った文化によって、厳粛な気持ちが生じてくるものが異なることを実感した。

 逆に言えば、日本人にとって厳粛な場所である日本の寺院や神社なども、異なる文化から来た人からすれば、興味深い観光地くらいにしか映らないのかも知れない。

 そう考えると、神仏というものは、あくまでも我々の心の中にあるものだということが分かる。