妙法寺から北東に歩き、津山市小田中の本源寺に至る。妙法寺は松平家の菩提寺だったが、本源寺は津山藩主森家の菩提寺である。
古びた山門が出迎えてくれる。
瓦が崩れ出しそうな門である。
本源寺は、臨済宗の寺院である。足利尊氏が暦応二年(1339年)に神戸(じんご)郷(現在の津山市神戸)に創建した安国寺を前身とする。
森忠政が慶長十二年(1607年)に安国寺を龍雲寺と改称して小田中に移転した。忠政の五十回忌に当たる天和三年(1683年)に、忠政の法名にちなんで、本源寺に改称した。
本源寺の本堂は、慶長十二年(1607年)に建てられたが、中門、庫裏、霊屋(たまや)、霊屋表門も同時期に建てられたとされている。この5つの建物が、江戸時代初期に建てられた臨済宗寺院建築の初期の遺構として評価され、国指定重要文化財となっている。
本堂は入母屋造り、桟瓦葺で、方丈形式の建物である。広壮な禅堂だ。最近瓦を葺き替えたものと思しく、瑞々しくて然程古く見えない。
隣の庫裏も、如何にも禅宗寺院の庫裏という朴訥な雰囲気を出している。
本堂の西側に、津山藩主森家歴代の位牌を収める霊屋があるが、霊屋の敷地に入る表門は閉ざされており、中に入ることは出来ない。
塀の間から、霊屋の敷地を覗いた。静かである。寺の娘さんが弾いているのか、本堂裏の方角からピアノの音が聞こえる。
津山藩主森家一門墓七基と霊屋前の参道、石灯篭は、岡山県指定重要文化財となっている。
寺の西側の塀側から霊屋の裏を見ると、藩主森家一門の墓石である五輪塔が林立するのが見えた。
その他にも、本源寺には、津山市指定重要文化財の木像森忠政公坐像がある。
今の津山の町の基本形を作った森忠政は、津山にとって、日本国土の国造りをしたとされる神話上の大国主命のような存在だろう。
さて本源寺から北に歩き、同じ小田中にある安国寺に行く。
安国寺は、美作国英田郡角南(すなみ)村にあった善福寺が前身だが、元禄二年(1689年)にこの地に移転された。明和七年(1770年)に現在の安国寺という寺名に改称した。
安国寺も本源寺と同様、臨済宗妙心寺派の寺院である。
平沼騏一郎は、戦後に開かれた極東国際軍事裁判により、A級戦犯とされ、終身禁固刑が言い渡された。
昭和27年に病気のため仮釈放が許されたが、同年に死去した。現在は靖国神社に合祀されている。
極東国際軍事裁判の内容や結果については、私にも意見があるが、今はただ墓前で手を合わせ冥福を祈るのみである。
安国寺の鐘楼に架かる梵鐘は、延享二年(1745年)に津山近郊の下高倉村の畑から掘り出されたものである。永和三年(1377年)の銘がある。
銘文によると、永和三年(1377年)に下高倉村の寄松山多聞寺の梵鐘として、鋳物師百済源次により作成されたそうだ。多聞寺が廃寺になった後、いつしか畑に埋もれたのだろう。
それが掘り出され、今安国寺の梵鐘として使用されている。鐘を一撞きすると、手応えのある音が響いた。梵鐘は岡山県指定重要文化財である。
本堂の裏には、津山市指定重要文化財となっている石林園という池泉式庭園がある。
禅宗寺院の石庭は、一つの世界を石や植木で表現している。眺めれば眺めるほど奥が深い。
私が津山を歩いたのは8月30日だった。
津山城跡を歩いている時は、35℃を超える熱風を感じたが、その後雷雨に遭い、涼しい風が急に吹きめぐった。
その後、津山城下の寺院を歩いている時は、気温が数度低下していた。もうすぐ秋が来るなと感じながら津山を後にした。