世に言う赤穂事件と言えば、忠臣蔵で有名な元禄赤穂事件だが、赤穂藩の歴史上には、もう一つの赤穂事件がある。
正保二年(1645年)、初代姫路藩主だった池田輝政の六男で、赤穂藩主となっていた池田輝興が突如発狂して、正室や侍女を斬り殺してしまった。これを正保赤穂事件と言う。
輝興は、幕府によって赤穂藩主を改易され、甥で岡山藩主であった池田光政に身柄を預けられることになった。
輝興は、事件の2年後に病没した。
輝興が赤穂に菩提所として建立した長松山盛岩寺が、輝興の没後の万治三年(1660年)、現在の岡山市中区国富2丁目に移転され、輝興の法名に因んで少林寺と改名された。
輝興の墓地は、岡山県備前市吉永町和意谷の岡山藩主池田家和意谷墓所にある。
少林寺は臨済宗の寺院で、山門を潜ると大きな本堂が目に入った。
本堂は、禅宗寺院の本堂らしく、広々として堂々としている。開け放たれた本堂の中を、お寺の娘さんと思われる小学生くらいの女の子が走り回っている。女子は、その後友達らと寺院の裏山の方へ行ってしまった。
本堂裏の庭園を整備していたお寺の住職と思われる方が、「おーい、遠くへ行っちゃいけんよー」と声をかけていた。
少林寺には、元禄十二年(1699年)に築庭された小堀遠州流の庭園がある。
私が塀の外側から、庭園を眺めていると、その方が「どうぞお入りください」と言って下さった。
私はお言葉に甘えて庭園を拝観させて頂くことにした。
背後の操山を借景とした静かな庭園である。背後の山とつながっているかのように見える、なだらかな斜面が、緑色に濁った池まで続いている。
この庭園は、約320年前に造られたものである。
岡山藩筆頭家老伊木忠澄は、隠居後三猿斎と号し、この庭園に三猿堂という茶室を設けて、裏千家流の茶を楽しんだという。
320年以上庭園を維持してきた労力は並大抵のものではないだろう。歴代住職に頭が下がる思いだ。
少林寺には、木造五百羅漢像を祀る羅漢堂があったそうだが、昭和14年の火災で焼失してしまった。
今は、羅漢堂の礎石のみが並んだまま残されている。
さて、少林寺から北に約200メートル歩くと、真言宗の寺院、勝鬘山法輪寺がある。
宇喜多秀家は、天正年間(1573~1592年)に、岡山城の移転改築と城下町建設のため、多くの大工を城下に呼び寄せた。
そんな大工達の氏寺として、大工町(現岡山市北区東中央町)に大円坊という寺院が建立された。
大円坊には、その後聖徳太子を祀るようになり、真言宗善通寺派大本山随心院の末寺となって、法輪寺と改名した。
法輪寺は、享保年間(1716~1736年)に現在地に移転したという。
法輪寺の堂舎は、その後の火災でほとんど焼失してしまったが、唯一鐘楼門だけは、享保年間の移転時から残っている建物であるそうだ。
龍の彫刻が見事である。
境内に入ると、聖徳太子を祀る本堂や、弘法大師を祀る大師堂があるが、どれも新しそうな建物である。
境内で昔からあったと思われるものは、お地蔵様を祀る地蔵堂と中の石仏であった。
こういう風に、小さな堂にお地蔵様が祀られている風景は、日本のどこに行っても見ることができる。
お地蔵様は、大地が捨てられた糞尿すらも受け止める如く、多くの衆生を受け止める包容力を持った仏である。
今回紹介した寺院は、正保赤穂事件の当事者池田輝興にゆかりある少林寺と、岡山城を建築した大工達にゆかりある法輪寺であったが、地域のさほど著名でないお寺にも、地元の人もほとんど知らない歴史的背景があるものだ。
町にある小さなお寺やお堂も、なかなか打ち捨てておけない物語を秘めている。