観音院の参拝を終え、観音院の南隣に建つ臨済宗の寺院、龍峰山広徳寺を訪れた。
鳥取市立川町1丁目にある。
この寺も、寛永九年(1632年)の池田光仲の国替えに際して、岡山から鳥取に移った寺院である。
当初は栗谷にあったが、東照宮の勧請に際し栗谷が藩の御用地となったため、現在地に移転した。
かつて広徳寺門前から袋川に向かう道沿いには、土塁が築かれ、そのまま土手につながっていた。
広徳寺周辺の地図を見ると、広徳寺から西に延びる道が、そのまま袋川の右岸に続いている。この道が、土塁と土手の跡である。
土塁の上に作られた道は、少し高くなっている。
上の写真は、北から南に写している。右に入っていく道が、土塁上に出来た道である。現地で見ると、この道が周囲より盛り上がっているのが分かったが、こうして写真で見ると、高低差がほとんど分からない。
山門を潜って右に進むと、庭師が庭木の剪定をしていた。実に整然と刈り込まれた庭木であった。
暑い中のプロフェッショナルな仕事に敬意を表したい。
境内の北側には、いかにも禅寺というような立派な庫裏がある。
庫裏の南側には、本堂がある。これまた堂々とした本堂である。
本堂入口の扉には、池田家の家紋である揚羽蝶が彫られている。池田家ゆかりの寺であることが分かる。
本堂前の庭木の西側に墓地がある。この墓地の中に、池田光仲お抱えの力士だった清水五六左右衛門尉重長、通称鎌倉十七の墓がある。
鎌倉十七は、17歳の時に鎌倉で行われた勧進相撲(相撲の全国大会)で優勝し、横綱格となって、以降鎌倉十七を名乗った。
池田光仲に召され、用心棒となったという。
身長6尺2寸(約1.9メートル)、体重31貫(約116キログラム)という巨漢であったそうだ。
60歳の時に、光仲の命で、当時無敗を誇った横綱明石志賀助と対戦し、勝利を収めたという。
元禄十一年(1698年)に死去した。
鎌倉十七の墓は、現存する力士の墓としては、日本最古である。
また、山門を潜ってすぐ左手にある戸を開けて、囲いの中に入ると、そこにも墓地がある。
囲いの中の墓地の西側に、慶応四年(1868年)の戊辰戦争で、鳥取藩大砲隊に所属し、上野での彰義隊との戦いで戦死した伊藤猪吉の墓がある。
伊藤猪吉の没年は17歳である。鳥取藩兵では最年少の戦死者であった。
広徳寺は、池田家の分家である山池田家の菩提寺である。
山池田家の祖は、信長の家臣だった池田恒興の長子の四男・池田之政(ゆきまさ)である。
本堂の右手から奥に歩いていくと、そこにも墓地が続いている。この墓地の最奥に、山池田家の歴代当主や親族の墓がある。
最奥に並んだ墓石の中央が、池田之政の墓だ。
之政の没年は、寛文九年(1669年)である。
本堂の裏には、ささやかな池泉式の庭がある。
庭を眺めて、しばし時の経過を忘れた。
鳥取市は、意外や意外、寺の町であった。これからも数多くの寺を紹介することになるだろう。