妙願寺から西に歩き、津山市宮脇町の徳守神社に至る。
徳守神社の祭神は、天照大神である。天平年間(729~749年)にこの地に勧請されたという。
当社は、中世には、田中郷富川宿の鎮守であったが、天文八年(1539年)の尼子・山名両氏の合戦により焼失した。
初代津山藩主森忠政は、慶長九年(1604年)に津山城築城の手斧始として徳守神社の社殿を再建し、津山の総鎮守とする。城下町を形成するのに、まず土地の神様を大切にお祀りしたのだ。
更に藩主森長継が、寛文四年(1664年)に現在の社殿を再建した。
徳守神社の拝殿、幣殿、本殿は、長継により同時期に建てられたものである。
社殿は全て銅板葺きの屋根を持ち、簡素な姿である。
本殿は、津山地方にしかない中山造りという様式である。美作国一宮である中山神社の本殿と同形式の本殿だ。
中山造りは、入母屋造りの屋根に唐破風の向拝が付く様式である。中山神社本殿は、国指定重要文化財で、息を呑む壮大さだが、徳守神社本殿は、中山神社本殿をそのまま小さくしたようだ。
この本殿は、組物と蟇股の彫刻が見事で、江戸時代初期の神社建築の典型例であるそうだ。
さて、津山市内では、今年8月1日の当ブログ記事で紹介した大隅神社と並んで、徳守神社の秋の祭礼は華やかで大がかりだ。
神輿が町中を進行するが、幕末からはだんじりが繰り出すようになった。
徳守神社の神輿は、森長継が社殿を再建した寛文四年(1664年)に初代の黒塗りのものが作られた。明和二年(1765年)に一度修理された記録がある。
現在も使われ続けている金色の二代目神輿は、岡崎屋伊兵衛らの発起により、氏子の総力を挙げて制作され、文化八年(1811年)に新調された。
二代目神輿は、その後明治31年に修理され、平成23年にも大修理を行い、現在に至っている。
総高280センチメートル、屋根部分縦横共210センチメートルで、神輿としては非常に大きい。
担ぎ上げるのに輿守が70名必要とされ、その大きさと華麗さから、日本三大神輿の一つとされているらしい。
神輿は神様の乗り物である。津山城下総鎮守の神輿なのだから、津山市民にとって最も大事なものの一つだろう。この神輿は津山市重要有形民俗文化財である。
番外編になるが、境内の一角にお花善神社という小さなお宮があった。
お花は、津山藩森家の家老職・原十兵衛の下で侍女をしていた女性であった。
お花は勝間田の実家から出て、原家の屋敷に侍女として出仕したが、容貌美麗であったため、原十兵衛の寵愛を受けた。
ある日、お花が原十兵衛の愛児の子守をしていたところ、ふとした過ちからその愛児が縁から落ちて死んでしまった。
原十兵衛夫人は激怒し、愛児の仇としてお花を惨殺する。その殺し方があまりにむごたらしかったので、お花の死後しばしば祟りをなし、原家には鳴動異変が絶えなかったという。
原家は、お花の怨霊を鎮めるため、邸内に小祠を作って祀った。これがお花善神社の由来である。
元禄十年(1697年)、森家は津山を改易となり、赤穂藩主となる。原家も赤穂に移ったが、お花の同情者や信仰者はお祭りを絶やさず香華が続いた。お花を祀った祠は、一時大円寺に移されていたが、明治初年の神仏分離令により、徳守神社境内に移され、現在に至っている。
お花善神社は、現在は逆境にある女性の守り神として、遠近からの参拝が絶えないという。
現在の津山市の原型を作ったのは森家である。史跡を巡ると、その影響の大きさを実感する。
森忠政は、津山城の建築だけでなく、城下の町割りや、寺社の再建なども構想したことだろう。慶長八年(1603年)に津山入りした忠政は、新しい国造りにさぞ意気込んでいたことと思う。