森本慶三記念館 後編

 津山森本家が経営した錦屋は、明治に入ってからも呉服商を続けていたが、明治15年に時計の販売を始めた。

 津山初の時計店森本時計店である。森本時計店が明治時代に扱っていた置時計が展示されていた。

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森本時計店が扱った置時計

 しかし明治時代には、時計は高級品で、時間を気にする人もそれほど多くなかったようで、時計商ではあまり儲からなかったそうだ。

 錦屋と森本時計店は、明治45年に廃業した。

 森本家は、歴代信仰心が篤く、津山城下の徳守神社を信仰していたが、慶三の代になってキリスト教を信仰するようになった。

 秀吉の時代から江戸時代にかけて、日本でのキリスト教の信仰は固く禁じられていた。

 記念館には、慶長四年(1599年)に太政官が出したキリスト教禁令の高札が展示されていた。

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キリスト教禁令の太政官布告を書いた高札

 慶長四年と言えば、秀吉没後とは言え、まだ徳川幕府も開府されていない頃だ。太政官の布告という朝廷の命令という形式を取っているが、この禁令に豊臣政権の意向が反映されているのは間違いないだろう。

 秀吉は、スペインがキリスト教布教を利用して世界各地を征服していることを知り、日本防衛のためキリスト教の禁教に踏み切った。

 今の時代、政府の意向や新しく制定された法律は、官報や行政機関の広報誌、マスコミによる報道で国民に伝達されるが、この時代は街角にこのような高札が建てられ、文字を読める人が政権の意向を理解し、他の人々に伝達した。

 明治時代になって、高札制度は廃止された。この高札は、錦屋が明治以降に商売の過程で入手したものだろう。

 明治に入ってしばらくすると、信教の自由が認められ、キリスト教を信仰できるようになった。錦屋の跡取りだった森本慶三は、内村鑑三の弟子となり、キリスト教を信仰するようになる。

 森本慶三記念館には、教会の講壇のようなスペースがある。

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教会の講壇

 豊臣、徳川政権のキリスト教禁止の決断は、後の日本の運命に大きな影響を与えたと言える。

 もし近世にキリスト教が日本に大いに広まり、庶民だけでなく権力者までもキリスト教徒になっていたら、それまで信仰されていた神社仏閣は、異端信仰の象徴として破壊されていたかもしれない。それは極端かもしれないが、この国が今我々が知っている日本とは大きく異なる国になっていた可能性はある。

 さて、森本慶三記念館で最も興味深い展示だったのは、津山森本家の祖森本宗右衛門の兄・森本儀太夫の子だった森本右近太夫が、寛永九年(1632年)にカンボジアアンコールワットを訪れて書いた落書きの関連資料である。

 森本右近太夫は、寛永九年にアンコールワットを訪れ、ここに仏像四体を奉納し、父儀太夫と母の菩提を弔った。

 その際、その意志を残すため、アンコールワットの壁に墨書をしたらしい。

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アンコールワットに残る森本右近太夫の墨書の位置

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森本右近太夫の墨書

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森本右近太夫の墨書の内容

 寛永九年は、徳川幕府による鎖国の前で、当時のカンボジアには、日本人町が出来ていた。

 日本人町に住んだり、訪れた日本人の間では、アンコールワットが、釈迦が成道した祇園精舎だという誤った情報が広まっていた。

 当時の日本人町に来た右近太夫は、祇園精舎に仏像を奉納して、両親の供養をしようと思ったようだ。

 中央公論社「日本の歴史」第14巻「鎖国」に、昭和初期に著者岩井成一と歴史学者黒板勝美アンコールワットを訪れ、右近太夫の墨書を何とか判読した話が書かれている。

 アンコールワットはいつしかジャングルの中に埋もれ、1861年にここを訪れたフランス人博物学者アンリー・ムーオーが「発見」するまで、誰も訪れなくなっていた。

 右近太夫の墨書もその間誰にも読まれることなく埋もれていたようだ。

 右近太夫にとって、アンコールワットを訪れたことは、大変な自慢だったようで、日本に戻って松浦藩に仕えるようになってからも、たびたびその話をしたそうだ。

 右近太夫の墨書に、現代のブログ記事と共通するものがあるようで、面白い。