津山城跡の北側、三枚橋の西詰に、幕末の津山藩の洋学者・宇田川興斎の旧宅跡がある。今は三角形の雑草が生い茂る空き地に説明板が立つのみである。
今年7月30日の当ブログ記事「津山洋学」で紹介したように、津山藩は洋学が盛んな藩だった。津山洋学の中心人物は、宇田川玄随・玄真・榕菴の宇田川家三代だが、興斎は天保十四年(1843年)に榕菴の養子になった人物である。
興斎は、江戸の津山藩邸で藩医を務める一方、幕府天文台にも出仕し、外交文書等を翻訳し、幕府と外国との交渉を側面から支えた。
ここは、興斎が江戸から津山に転居した時に住んだ屋敷跡である。
さて、津山城跡の南側には、3つの資料館が並ぶが、今日はその中で森本慶三記念館を紹介する。記念館は、津山市山下にある。
森本慶三は、江戸時代に津山城下で呉服商として財を成した錦屋森本家の後裔で、明治時代に内村鑑三の弟子となり、キリスト教の伝道に力を入れた人物である。
この建物は、布教のためのキリスト教関連書籍の図書館として、大正15年に設立された。かつては津山基督教図書館と呼ばれていた。木造三階建てで、南側にはイオニア式壁付柱を持ち、東側には時計の付いた塔屋がある。
設計者は弘前出身の桜庭駒五郎で、現在は国登録有形文化財となっている。
今は、図書館としては運営されておらず、2階を歴史民俗館として、津山藩や森本家と森本慶三に関する資料を展示している。
2階へ上ると、廊下に津山城天守の屋根に載っていた鬼瓦が展示してあった。かつて津山城下で最も高い位置にあった物である。
また、歴史民俗館に入ってすぐ右手には、津山城の絵図があった。こういう絵図を手にしながら城巡りをすると、より楽しめるだろう。
絵図の隣に、元寇の際の蒙古兵と戦う武士の木彫り像が展示してあった。
この木彫り像は、元寇の際に敵国調伏を祈願して造られ、美作国真庭郡の神社に奉納されたものだが、その神社が天保時代に取り壊された後は、民家が所有していたものである。
欅の一本彫りだが、躍動感がある像で、鮮やかな彩色が残っており、鎌倉時代後期の作品とは思えない見事さだ。
津山森本家の祖は、多田源氏の血を引く摂津国池田の武将森本儀太夫の弟森本宗右衛門である。
儀太夫は、加藤清正に仕えた武将である。その弟惣兵衛、宗右衛門の2人は、武士をやめて播磨国千種に移住し、商人を始めた。
2人はその後美作国林野に移住するが、森忠政が津山藩主となった時、宗右衛門は津山に移り住んだ。
宗右衛門は、三郎兵衛と改名し、錦屋の屋号で呉服商を始めた。
森本家は歴代の当主が商才を発揮し、津山の豪商となった。道路建設や新田開発も行い、津山藩の御用商人となった。幕末には藩の札元役になり、7700両もの金を藩に献納した。
一方で農民への寛大な融資や、貧民への施しも行い、幕末・維新期に発生した一揆・騒擾の際も被害に遭うことはなかった。
上の写真の明治22年の錦屋店頭の木版画には、森本藤吉の名があるが、藤吉は慶三の父である。
錦屋は、財政難に苦しむ津山藩にもたびたび金を貸したものと見える。津山藩から下賜されたと思われる品物が多数展示してある。
津山藩森家は、元禄十年(1697年)に津山を除封となり、浅野家が断絶した後の赤穂に入り、幕末まで赤穂藩主として存続した。
森家の後に津山に入ったのは、徳川家康の二男結城秀康の三代後となる松平宣富である。幕末まで、松平家が津山藩主となる。
記念館に、二代将軍秀忠の三女勝姫が、結城秀康の長男松平忠直に嫁いだ時に持参した文箱があった。
鶴と葵の紋の蒔絵が美しい。
この文箱がどういった経緯で錦屋の所有になったかは不明である。
また、松平家家老の佐久間家から錦屋が拝領した、元の時代の書家趙子昴による赤壁賦の書が展示してあった。
見事な運筆だと思う。
江戸時代には、日本中の各藩が財政難に苦しんだ。藩は、財力の有る御用商人に頼ることになり、商人が力を付けることになった。
日本の各地にこのような商家があって、貴重な文化財を今に伝えていることも少なくない。
森本家は大正に入る前に錦屋を廃業する。財力がある家もいずれは無くなる。後に残るのは、富裕な家が集めた見事な工芸品や芸術品、建てた建物などである。人を唸らせる作品には不滅の価値がある。