宝生院のシンパクの見学を終え、宝生院の境内を散策しようと思った。
この寺は、小豆島有数の名刹であると思われるが、観光客はシンパクに目が行って、寺院の拝観はあまりしていない様子であった。
私が宝生院を訪れた時、シンパクの見物客が多数いたが、シンパクを見終わると皆立ち去ってしまった。
一人残った私は、ゆっくりと境内を拝観した。
宝生院は、弘仁五年(814年)に弘法大師空海が小豆島を訪れた際、修業の場として開創したとされる小豆島八十八箇所霊場の第54番札所である。
境内には、明治の神仏分離によって行き場を失った第51番札所宝幢坊と第52番札所旧八幡宮がある。
宝生院の山号である皇踏山は、応神天皇が小豆島に御幸をした時に、山頂に登って国見をしたという山で、寺の背後に聳えている。
山全体が花崗岩で出来ていて、少しづつ風化している様子である。
さて、宝生院のシンパクのすぐ近くには、愛染明王のお堂がある。
愛染明王は、人が持つ愛欲の力を覚りに転化する力を持った仏様である。
密教の仏たちは、それぞれが人の心の機能を表したものである。人間の持つ愛欲が、実は清浄な覚りを齎す機縁にもなるということだろう。
愛染明王像の北側には、小豆島八十八箇所霊場第52番札所の旧八幡宮がある。
旧八幡宮は、別名本地堂という呼び名であったようだ。
密教では、神様は仏の仮の姿で、神様の元の姿を本地仏という。本地仏を祀るのが本地堂である。
この本地堂は、富丘八幡神社の本地仏を祀る建物として、明治初年まで富丘八幡神社の境内にあったものである。
明治初年の神仏分離令により、富丘八幡神社から宝生院に移された。
旧八幡宮に祀られている祭神は、誉田別命(第15代応神天皇)こと八幡大神だが、八幡大神は中世には八幡大菩薩という菩薩として信仰されるようになった。
八幡大菩薩の本地仏とされるのが無量寿如来(阿弥陀如来)である。
旧八幡宮(本地堂)の内部を見ると、3つの祠があり、その前には御幣が立ち、鏡がある。鏡の前に、阿弥陀如来と思われる仏像がある。
おそらくこれは前置きの像で、祠の中に本尊が祀られていることだろう。
鏡と御幣という神具と仏像の組み合わせというと、不思議な感じがするが、これが神仏分離以前の日本の信仰の形である。
神仏習合の考えに基づけば、八幡神社に行って神前で合掌して南無阿弥陀仏と名号を唱えてもいいのである。
だが、神仏が習合していては、日本の神々の子孫である天皇を絶対化するという明治政府の意図は実現できない。神仏習合の考え方では、仏は神々の本来の姿であり、必然的に天皇も仏に帰依することになるからである。
明治政府は、日本を欧米に対抗する強国にするため、日本神話につながる天皇を中心とする皇国史観を国民の精神的支柱に据えた。
そのためには、日本神話に出てくる神々を仏の仮の姿とする神仏習合の考え方は、徹底して排除する必要があった。
そのため、この本地堂も富丘八幡神社から排除されてしまった。
私は、今後の日本の精神的支柱になるのは、神仏習合の思想であると考えている。
将来、日本から皇室がなくなる可能性が現実のものとして存在する。
また、少子高齢化が進む日本には、不可避的に海外から移民が大量にやってくる。
今世紀半ばには、今後の我が国の将来像がおぼろげながら見えてくるだろう。それは、様々な地域にルーツを持つ人々が混ざり合った多様性のある国である。そして、もはや天皇が国民統合の象徴として機能しなくなる国である。
そんな将来の日本では、インド、中国、朝鮮半島、日本の神々を排除することなく、仏教のパンテオンの中に位置づけ、性別や身分の上下に関係なく人々の覚りと救済を目指した過去の神仏習合の思想こそが、再び脚光を浴びることになるだろう。
そして、神仏習合と結びついた古くからの山岳信仰が、日本に住む人々の人種や国籍に関わらず再び注目されるようになるだろう。
さて、小豆島八十八箇所霊場を開創し、神仏習合の理論的支柱となる「秘密曼荼羅十住心論」を著した弘法大師空海を祀る大師堂は、境内の西側にある。
唐の長安に渡ってから、密教を本格的に修習すると同時にサンスクリット語も習得した。
当時世界最大の国際都市だった長安で、弘法大師はイスラム教やキリスト教にも接したことだろう。
弘法大師は、長安という国際色豊かな都市の中で学んだ人物である。一方で、吉野や紀伊、四国などの日本の古くからの山岳霊場を巡り、修業に明け暮れた人物である。
その空海が請来した密教が、日本の神仏習合と山岳信仰を発展させた。
自然は人を区別せずに受け入れる。日本の山岳信仰は、修業する人や信仰する人の国籍や人種を選ばない。