明石市立天文科学館の東側の空き地には、寛永十年(1633年)に初代明石城主小笠原忠真の後を継いで、二代目城主となった松平康直を供養する五輪塔がある。
この五輪塔が珍しいのは、通常は五輪塔の各石に梵字が彫られるところが、「地水火風空」と漢字が彫られていることである。
松平康直は、寛永十年に、信州松本から明石に入封したが、翌年には18歳の若さで病没した。藩は、若い君主の死を悼んだのだろう。
元々海沿いの明石市中崎にあった句碑をここに移したようだ。
「ほととぎす きえいくかたや しまひとつ」
明石からは、対岸の淡路島が大きく見える。芭蕉が飛び去る不如帰を目で追うと、消え去った方向に淡路島があったのだろう。視界一杯に広がる淡路を「しまひとつ」と5文字に凝縮してさらりと詠んだ芭蕉の言葉のセンスに脱帽する。
芭蕉は、笠と簑を着けて全国を旅したが、私にとっての笠と簑はスイフトスポーツではないかと想像して楽しんだ。
さて、天文科学館の裏にある小高い丘は、人丸山と呼ばれる。人丸の名称は、万葉歌人柿本人麻呂から来ている。
元々は、現在の明石城が建つ丘が人丸山と呼ばれていた。
弘仁二年(811年)、弘法大師空海が明石を訪れ、今の明石城本丸の地に、湖南山楊柳寺という寺院を建立した。
仁和三年(887年)、住僧覚証和尚が、人麻呂ゆかりの大和国柿本寺より船乗十一面観世音菩薩を勧請し、柿本人麻呂の祠(人丸社)を建てて鎮守とした。同時に寺号を月照寺と改めた。
天正三年(1575年)、三木雲龍寺より、安室春泰禅師が来て月照寺で参禅していると、柿本人麻呂の神霊が現れ、禅師の禅定を讃すること七日に及んだ。それから月照寺は曹洞宗に改宗した。
元和五年(1618年)、小笠原忠真が、人丸山上に明石城を建設した。その際、月照寺は現在地に移された。今月照寺が建つ丘が、人丸山と称されるようになった。
享保八年(1723年)、柿本人麻呂千年祭にあたり、石見国と播磨国の人丸社に朝廷から正一位柿本大明神の神位神号が贈られ、桜町天皇宸翰短籍(月照寺蔵)、後桜町天皇宸翰短籍(柿本神社蔵)、仁孝天皇宸翰短籍(柿本神社蔵)が奉納された。いずれも国指定重要文化財である。
月照寺山門は、ここを訪れた永井荷風が、「山門甚古雅なり」と嘆賞したものである。
元和四年(1618年)に、小笠原忠政が、徳川秀忠から伏見城薬医門を拝領し、明石城切手門として設置した。
その切手門が、明治6年に月照寺山門として移築された。確かに見ると、もとは堅固な城門であったことが分る。400年以上前に造られた門だ。明石市指定文化財となっている。
明治4年の神仏分離令により、月照寺の鎮守であった人丸社は、柿本人麻呂を祀る柿本神社として月照寺から分離独立した。
しかし今でも月照寺と柿本神社は並んで人丸山上に建っており、その絆は分かち難いと感じる。
月照寺境内には、壽祥松と呼ばれる寿の姿を現した黒松を中心とした美しい庭園がある。
現在は、柿本神社に結婚式場があるせいか、参拝客は柿本神社の方が多く賑やかで、月照寺は静かである。
今も月照寺に柿本寺から勧請した船乗十一面観世音菩薩像があるかは分らない。お堂の前には観世音菩薩の銅像があった。
月照寺境内には、東経135度の子午線上に建つ鐘楼がある。
元々月照寺に吊るされていた梵鐘は、昭和18年に戦時供出により失われた。
昭和53年に鐘楼が再建され、この梵鐘も新たに鋳られて吊るされた。今の梵鐘は、重量3トン強、一撞きの余韻が三分半に及ぶ神品であるという。
日本で唯一、東経135度の子午線上に設置された梵鐘なので、子午線大梵鐘と呼ばれている。
鐘楼の床には、子午線に沿ってLED灯が引かれている。決まった時間に点灯するそうだ。
人丸山を西側の階段から降りていくと、鳥居があり、その鳥居のすぐ脇に名水「亀の水」が湧き出る「遺跡亀の水」がある。
この亀の水は、寛文四年(1664年)以前から湧き出ていたと伝えられ、いかなる渇水の時も涸れたことがないという。
水を吐く亀形の樋水口は、享保四年(1719年)に造られた。水を受ける手水鉢は、常陸国の飯塚宣政が寄進した。
私がここに滞在したのは、極く短期間で、一口亀の水を口に含んだのみだったが、その短い間にも、水を汲みに続々と人がやってきていた。
亀の水の近くの休憩所に設置された灰皿に、永井荷風が昭和20年6月8日にここを訪れた時に残した文章が刻まれていた。
「亀齢井と称する霊泉あり 掬するに清冷氷の如し」とある。
荷風は、疎開のため東京を離れ、昭和20年6月3日から同月12日まで明石に滞在している。荷風の日記「断腸亭日乗」に、荷風が月照寺、柿本神社を訪ねた時の記事が載っている。この文章も、「断腸亭日乗」からとられたものである。
ふと荷風が75年前にここで霊水を掬して飲んで、喉の渇きを癒したことを思ってみた。