淡路市岩屋は、漁業の町である。岩屋漁港からは、潮流の速い明石海峡に多数の漁船が繰り出す。
その岩屋漁港のすぐ傍にあるのが、約2000万年前の岩屋砂岩の地層が露出して出来た、大和島、絵島という2つの小さな島である。
漁港の南側にある大和島は、陸続きの島である。
大和島は、砂岩や礫岩で出来ている。これらの岩は、柔らかく、波に浸食されやすい。
島の下の方が波で削られ、中腹以上に、イブキという樹木が群生している。岩上植生というらしい。
大和島のイブキは、樹齢数百年を経たものもあるそうだ。長年の風波に耐えた大和島のイブキ群落は、生態学上貴重なものとして、兵庫県指定文化財となっている。
この大和島の側に柿本人麻呂の歌碑が建っている。
歌碑には、「万葉集」に載っている人麻呂の有名な歌である、
天離る(あまざかる) 夷(ひな)の長道(ながじ)ゆ 恋ひ来れば
明石の門(と)より 大和島見ゆ
が刻まれている。
「天離る」は、都(天)から遠く離れた場所である夷の枕詞である。
人麻呂は、夷である九州に旅して、その帰りに、恋しい妻を慕いつつ、瀬戸内海の長い航路を船に乗って帰って来た。
船が明石海峡に差し掛かった時、妻の住む大和島が見えたという歌意である。
ここに言う大和島は、岩屋の大和島ではなく、おそらく明石海峡から見えた今の大阪の海岸とその先の生駒山地のあたり、つまり大和を中心とした地域を指しているのだろう。
人麻呂は、岩屋の大和島のことを詠ったのではないが、岩屋の大和島の地名は、案外この人麻呂の歌から来ているのかも知れない。
さて、岩屋漁港の北側には絵島がある。この島も砂岩で出来た島である。
「古事記」「日本書紀」では、日本列島の産みの親であるイザナギ命とイザナミ命が、国生みの最初にオノゴロ島を作ったとされている。
この夫婦神が、天の浮橋に立ち、天の沼矛(ぬぼこ)を海原に下し、「こをろこをろ」とかき回してから引き上げると、矛から滴り落ちた塩が積み重なって、オノゴロ島になったという。
イザナギ命とイザナミ命は、オノゴロ島に降り立ち、天の御柱と八尋殿を建て、天の御柱を回って、出会ったところで「みとのまぐわい」(性交)をした。
その後、イザナミは、日本列島の島々を次々と産んだとされている。
古くから、この絵島を記紀神話で言うところのオノゴロ島とする説が唱えられてきた。
オノゴロ島に比定されている場所は、絵島以外にもある。今後、淡路の史跡巡りをする過程で、それらの場所を紹介していくことになるだろう。
絵島は、古くから月の名所としても知られてきた。平家が福原京を都とした時も、平家一門は船で絵島の辺りに渡って来て、ここで月を愛でて歌会を催したという。
西行の歌は、「千鳥なく 絵島の浦に すむ月を 波にうつして 見るこよいかな」というものである。
歌意は明快である。西行は、万葉歌人山部赤人以来の自然歌人で、後世宗祇や芭蕉、種田山頭火といった漂泊の詩人たちが模範とした歌人である。
西行もこの月の名所に憧れて訪れたものとみえる。
絵島の上には鳥居があり、宝篋印塔らしきものが見える。
現在絵島は立入禁止となっているので、宝篋印塔の近くに行くことが出来ない。
この宝篋印塔は、平清盛が大輪田泊(おおわだのとまり、現兵庫港)を築いた時に、人柱として海に沈んだ松王丸を供養するために建てたものと言われている。
それが本当だとしたら、清盛は、世間の人が名所として愛でる絵島に、供養塔を建てることが、故人に対する供養になると考えたのだろう。
上の写真は、逆光で絵島が陰になってしまっているが、よく出来た盆栽のような絵島の形が現れている。
満月の宵などには、絵島は月光に照らされて海上に浮かびあがり、歌になりそうな姿を見せることだろう。
岩屋漁港からは、長大な明石海峡大橋が見える。
明石海峡大橋は、現代技術の粋を集めた建設物である。それが神話の舞台とされる場所のすぐ近くに建っている。象徴的な構図だ。
これから書いていくことになると思うが、淡路島は、日本の古い過去と、新しい要素が錯綜する、日本の未来の姿を垣間見せてくれる島である。この島の魅力を少しでも伝えられたらいいと願う。