別所長治が居城とした三木城は、三木市上の丸町の小高い丘の上にあった。
雲龍寺は、村上天皇の勅命により、天徳二年(958年)に慈恵僧正が創建した。天皇の勅願所としての高い格式を誇ったが、その後廃絶した。
赤松入道円心が、雲龍寺の古くからの由緒を知って、元亨二年(1322年)に後醍醐天皇に寺の再建を申請した。天皇から高源山の山号を賜り、天皇の勅願所として復興した。
私が訪れたときは、雲龍寺は大規模改修工事中で、中に入れなかった。
天正八年(1580年)1月17日、雲龍寺七世の春泰禅師は、自刃を前にした別所長治から城内に招かれ、愛用の天目茶碗と唐子遊びの軸を賜った。
自刃後、長治の首級は、安土城の信長の下に届けられた。春泰禅師は、安土城に赴き、信長から長治の首級を受け取り、雲龍寺に持ち帰って手厚く埋葬した。
ここには、長治公と同じく自刃した照子夫人が祀られている。昭和17年には、首塚を在郷軍人会が補修したという。長治公は長い間地元の武人に崇敬されてきたようだ。
三木城の二の丸のあった辺りに建つのが、三木市立みき歴史資料館である。
みき歴史資料館は、三木の古代遺跡からの発掘物や、三木合戦に関する資料を展示している。
遺跡からの発掘品で関心したのが、自然釉のかかった須恵器である。
窯の中で須恵器にかかった灰が、溶けて自然の釉薬となって須恵器の景色を作りだしている。
須恵器の時代は、まだ陶器に芸術性が求められることは稀で、大量生産品として各地の窯で製作されていたのだろうが、中にはこんな逸品もあるのだ。
みき歴史資料館には、「三木合戦軍図」の複製が展示されている。
「三木合戦軍図」は、寛永年間(1624~1644年)に、別所家の遺臣来住安芸守景政が寄進したと伝えられる。天保十二年(1841年)に画家中条竹趣が、長治の末裔別所長善の依頼を受けて「三木合戦軍図」を模写して寄進したのが、天保模写図である。
法界寺には、天保模写図が保管されている。みき歴史資料館に展示されているのは、その複製である。
「三木合戦図」には、合戦の始まりから長治の自決まで、三木合戦の各場面が描かれている。長治が自決して開城することを受け入れたため、秀吉は、長治たちの別れの宴のために、三木城内に差し入れをしたようだ。
別所長治の肖像画の写真もあったが、なかなか涼しい目をした若武者だったようだ。
今まで何度も触れたが、三木城に対する兵糧攻めは過酷を極めた。
昭和55~56年に行われた三木城の発掘調査では、備前焼の大甕を入れた穴が16個分見つかった。16の穴のうち2つには甕はなく、残りの穴に入っていた甕は全て割れていた。
備前焼の大甕がこれほど集中して発掘された例は少ない。甕の中から炭化した麦が見つかったので、城内の食料を貯蔵するために使われていたことが分かった。
割れた大甕を修復したものが、館内に展示されていた。
この大甕はほとんど中身が空で、一部から炭化した麦が少量見つかった。
残った麦の量が少ないので、秀吉の兵糧攻めにより、城内の食料が底をついていたのが分かる。数千人が餓死したという。
別所長治は、秀吉が毛利を攻撃し始めてから、織田家に反旗を翻したが、その理由が分かっていない。毛利氏に恩義があったのだろうか。
播州の赤松家の流れを受けた一族たちは、秀吉によってことごとく撃破されるか、降伏した。