桜山天満宮 本荘神社

 智源寺の参拝を終えて、宮津市万町にある桜山天満宮を訪れた。

 狭い一方通行の道に面した民家の間に鳥居があるので、車で前を通っても見落としそうである。

 私も一度通過してしまい、二度目に境内に辿り着いた。

桜山天満宮

 桜山天満宮がこの地に勧請された年代は不詳である。

 寛永年間(1624~1644年)に宮津藩主京極高広が社殿を再建したそうだ。

参道

 この神社に祀られる菅公神像は、元々太閤秀吉が身辺に守護神として持っていたものを、秀吉の側室だった松の丸が、甥の京極高広に送ったものと言われている。

 松の丸は、京極高広の父京極高知の妹である。若狭守護武田元明に嫁いだが、秀吉に攻められた元明が自決した後、秀吉の側室にされた。

境内

 松の丸は、秀吉の側室になった後は、淀君と勢力争いをしたという。

 松の丸は、秀吉の没後、甥の高広に守護神として菅公神像を渡したのではないか。

拝殿

本殿

本殿の彫刻

 境内には、鉄筋コンクリート製の宝物庫があるが、ここには桜山天満宮の宝物や、近世万町町絵図、祭礼屋台等を収蔵しているらしい。

宝物庫

 桜山天満宮の境内には、幕末の宮津藩主、本荘宗秀、宗武の墓がある。

本荘宗秀、宗武の墓

 本荘宗秀は、幕末に異国船が来航する中、寺社奉行大坂城代京都所司代、老中といった幕府の要職を歴任し、慶応二年(1866年)の第二次長州征伐では副総督になった。

 だが長州征伐で捕虜にした長州藩士を釈放したことで老中を解任され、晩年は文芸書画を好み、伊勢神宮の大宮司になったという。

本荘宗秀の墓

 明治6年に死去した。享年65歳。

 宗秀の子、宗武は、最後の宮津藩主である。

 明治2年の版籍奉還では、宮津藩知事になり、明治4年の廃藩置県では宮津県知事となった。

本荘宗武の墓

 明治6年に北海道開拓に向かったが、父宗秀の死と共に宮津に戻り、地元の籠神社の宮司を務めた。明治26年に死去。享年48歳。

 宗秀の墓の前にある石橋は、元々宮津城二ノ丸にあった昌国宮から移築されたものである。

元昌国宮の石橋

 昌国宮は、宮津藩主本荘家初代の本荘資昌を祀った神社であった。

 明治に入って宮津城が廃城になってから、昌国宮は荒廃したが、明治19年に昌国宮再興事業として、ここから南の桜山に本荘神社が建てられ、この石橋も移築された。

 本荘宗秀、宗武の墓所から南に歩くと、桜山の登り口がある。

桜山登り口

 この登り口から坂を登ると、本荘神社の鳥居が半ば草むらに埋もれて建っている。

本荘神社鳥居

 この鳥居の向こう側は、公園になっている。ゴルフの練習をしている人がいた。

公園

 この公園を過ぎると石段がある。石段を登ると、本荘神社の社殿が草叢の中に建っていた。

石段

本荘神社

 本荘神社の社殿の近くには、神社の由来を刻んだ石碑が建っている。

本荘神社の由来を刻んだ石碑

 本荘神社は、山中にひっそりと建っている。

本荘神社

 今ではこの神社に宮津藩主本荘家の初代藩主を祀っていると知る人も少なかろう。

 どんな神社にも創建時の由来がある。神様は理由があってそこにおられる。その由来を語り伝えることは、必要なことであると思う。