明石市魚住町の寺院

 吉田南遺跡から西に向かい、明石市魚住町長坂寺にある足留山遍照寺に行く。ここは浄土宗の寺院である。

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遍照寺

 推古天皇五年(597年)、当時の日本の同盟国百済の阿佐太子が来日した。

 阿佐太子は、飛鳥の皇居にて聖徳太子と清談した後、明石浦魚住の泊より帰国した。そのとき阿佐太子は、順風の風を待つために、今の遍照寺のある場所に足を留めた。

 聖徳太子が阿佐太子を見送った後、再びこの地に泊ったところ、夢に白髪の老人が忽然と現れ、太子に「この深林は常に仏が教えを説く霊地である。」と告げて、白い雲に乗って東へ去って行った。聖徳太子は老人が現れた場所に、納殿と僧坊を建立し、足留山(そくりゅうざん)長坂寺と名付けた。
 天平十二年(740年)、大僧正行基により、長坂寺に28もの堂塔伽藍塔頭寺院が完備された。遍照寺はその塔頭寺院の一つであった。

 壮大な寺領をもっていた長坂寺が、加古川市鶴林寺、揖保郡太子町の斑鳩寺と同じく、聖徳太子のゆかりの寺であったことから、その流れを汲む遍照寺は、「魚住の太子さん」と呼ばれるようになった。
 平安時代には花山上皇和泉式部が参詣したと伝わっている。

 元弘三年(1333年)、後醍醐天皇が配流先の隠岐から京都への帰路に長坂寺に立ち寄り、鎮護国家を祈願したと伝わる。

 長坂寺は、建武の親政のころに兵火にかかり焼失した。通義和尚により再建されたが、天正七年(1579年)、秀吉と三木城主別所長治との戦で再び焼失した。
 貞享二年(1685年)に、乗蓮社大誉上人が遍照寺の再興に着手した。

 昭和55年、實誉桂純が本堂等を建て替え、現在の姿となった。

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本堂

 本堂は、鉄筋コンクリート製の建物だが、天平の寺院をイメージしてか、屋根に鴟尾が載っている。

 本堂には、阿弥陀如来、釈迦如来観音菩薩地蔵菩薩虚空蔵菩薩弘法大師を安置しているそうだ。

 客殿には、聖徳太子薬師如来大日如来を安置している。

 弘法大師大日如来を安置しているということは、ここが真言宗の寺院だった時期があったということではないか。

 境内には墓地が広がる。墓地の中央やや西寄りに、別所長治の供養塔と伝えられる五輪塔が建っている。

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別所長治の供養塔

 後々三木市の史跡巡りで詳述することになると思うが、別所長治は、赤松氏の流れを汲む戦国大名で、三木城を拠点としていた。

 長治は、秀吉が播州に侵攻した際、最初は織田氏に恭順したが、後に離反し、毛利氏につくことになった。

 天正六年(1578年)に始まった三木合戦の経過の大半は、秀吉による三木城の兵糧攻めであった。

 三木合戦の途中、ここ遍照寺も炎上した。天正八年(1580年)、兵糧が尽きて弱った三木城に秀吉軍は総攻撃をかけようとする。

 長治は、自分と家族の命と引き換えに、残った兵士の助命を嘆願する。この降伏条件が秀吉に受け入れられ、長治と妻子は自決する。

 自らの命と引き換えに、部下を救った長治を地元は哀悼したのか、三木周辺には長治を供養する史跡が多数ある。

 遍照寺境内には、「従是(これより)太子江(へ)三丁、小式部」と刻まれた石柱が建っている。

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案内の石柱

 小式部の下にも文字が彫られていると思われるが、そこから下は地下に埋まっている。小式部とは、「小倉百人一首」にも歌が載っている小式部内侍のことである。

 この石柱は、元々別の場所に建っていたことだろう。「太子」というのは、「魚住の太子さん」と呼ばれている遍照寺のことを指している。この石柱は、元々は遍照寺から三丁ほど離れた場所に建っていて、遍照寺まであと三丁と案内していたものである。

 実は遍照寺から三丁ほど行った場所に、小式部内侍の供養塔が建っている。この石柱は、元々その近くに建っていたことだろう。

 JR魚住駅の北東の住宅街の中、明石市魚住町錦ケ丘3丁目23番に、小式部内侍の供養塔が建っている。

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小式部内侍供養塔

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 小式部内侍は、平安時代の女流歌人和泉式部の娘であり、母と同じく、一条天皇中宮彰子に仕えた。

 「小倉百人一首」に、小式部内侍の歌の、

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

が収録されている。

 小式部内侍は宮廷歌人の一人だったが、有名な歌人だった母和泉式部がその歌を代作しているのではないかという噂が立っていた。

 ある時、四条中納言藤原定頼が、歌合に歌を詠進することになった小式部内侍に「代作を頼む使者は出しましたか。使者は帰って来ましたか」と意地悪な質問をした。 

 小式部内侍は、即座にこの歌を返した。当時、和泉式部は夫の任国である丹後の天橋立の近くに住んでいた。大江山は、京から丹後に赴くときに通る山である。

 「行くの」と地名の「生野」、「踏み」と「文(ふみ、手紙のこと)」が掛詞になっている。

 歌意は、「大江山に行く(生野の)道が遠いので、母のいる天の橋立の地を踏んだことがありません(母からまだ手紙は来ていません)」というものである。

 藤原定頼は、当意即妙の小式部内侍の返しに、舌を巻いたという。

 小式部内侍は、26歳という若さで死去した。娘の死を嘆いた和泉式部は、一条院の庭にあった小式部内侍ゆかりの松を、長坂寺に移し替え、僧寂心が供養塔を建てたという。

 ということは、この辺りも昔は長坂寺の寺域だったのだろう。塔を眺めると、娘に先立たれた母和泉式部の悲しみが伝わってくる。

 遍照寺から更に西に行き、魚住町清水の西福寺(臨済宗)に赴く。

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西福寺

 西福寺の南側に清水神社がある。その鳥居の前に、西福寺の墓地があるが、墓地の中に、兵庫県指定文化財である石造五輪塔が建っている。

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西福寺の石造五輪塔

 この石造五輪塔には、貞和二年(1346年)の銘がある。南北朝の争乱で亡くなった人々を供養するための供養塔と言われている。

 今日の史跡巡りは、供養塔を三つ紹介した。地味な記事になると予想したが、書き始めてみると、供養塔にも様々な背景があって、紹介すると予想外の長文になった。

 普段見過ごしてしまいがちな地味な石造物にも、背景に豊饒な過去があるものだ。