兵庫県三木市東這田にある虚空山法界寺は、浄土宗の寺院である。
ここは、三木城を拠点とした戦国武将別所長治が埋葬された寺院である。
法界寺は、天平四年(732年)に行基菩薩が開基したとされている。行基が聖武天皇の勅を奉じて全国を行脚している途中、この地に錫を留めた。行基の前に一人の翁が現れ、「この地は和光同塵の地なり。よろしく伽藍を建立して衆生を化益せば、我常に守護して退転せざらん」と言って、行基に弥陀の尊像を与えたという。行基は随喜の涙を流し、この地に伽藍を建立し、法界寺を創建した。
その後延徳年間(1489~1492年)に、別所氏中興の祖別所則治は、法界寺の伽藍を整備し、別所氏の菩提寺とした。
天正八年(1580年)、秀吉の三木城攻めで自害した別所長治が法界寺に埋葬された。長治公百回忌に当たる延宝六年(1678年)、禅空素伯和尚は、東播八郡総兵別所府君墓表の碑を建立する。
別所氏は、赤松氏の流れを汲む武家である。祖先の赤松氏から枝分かれして別所氏を名乗り、赤松氏の守護代となって三木を中心に勢力を伸ばした。戦国の世になって、力の衰えた主家の赤松氏から独立して戦国大名となったが、最後は秀吉率いる織田軍の前に敗北した。
一時は東播八郡を領した別所氏の墓がある法界寺の禅空素伯和尚は、別所氏の来歴と功績をこの碑に刻んだ。1678年に建てられた碑とは思えないほど、文字も風化しておらず、はっきり判読できる。
法界寺は、文政四年(1821年)に低湿地にあった本堂等の伽藍を高台に移転させた。それが今の伽藍である。
本堂のある場所から西に行くと、別所長治の霊廟がある。霊廟の脇には、別所長治公の石像がある。騎乗する長治公の像である。
別所長治は、秀吉率いる織田軍が播州に入ってきたとき、最初は服属した。しかし、秀吉が上月城を巡って毛利軍と戦っている最中に織田家に反旗を翻した。(当ブログ令和元年8月29日「上月城跡 上三河農村舞台」の記事参照)
背後で反乱の狼煙が上がったため、秀吉は三木にとって返し、三木城に立て籠もる別所氏を攻撃した。
秀吉が取った作戦は兵糧攻めであった。天正八年、兵糧が尽きた三木城に秀吉が最後の総攻撃をかける直前、別所長治は降伏を決断する。
長治は降伏の条件として、長治一族が自害する代わりに部下将兵の命を助けることを嘆願した。秀吉がそれを受け入れたため、長治一族は自害し、城を秀吉に明け渡した。
霊廟の前には、長治の辞世の歌、「いまはただ うらみもあらじ 諸人の 命にかわる 我身と思へば」が刻まれた石碑が建っている。
長治の享年は23歳であった。地元は長治公の最後を称え、今でも顕彰を惜しまない。
霊廟の傍には、寄り添うように別所氏家臣団の墓が建つ。
私も職場で部下を持つ身なので、長治公の気持ちのほんの一部は分かる気がする。思えば家族でもない部下を労わる気持ちというものが、どうして生じてくるのか不思議なものである。
法界寺から東に行き、三木の市街地に入る。三木市本町2丁目にあるのが、日蓮宗の寺院本要寺である。
本要寺は、三木城陥落後に秀吉が本陣を置いた場所である。
三木合戦の後、荒廃した三木の町を復興するため、秀吉はこの本要寺に地子免除の制札を立てた。
地子とは土地にかかる税(地代)のことで、現代で言うところの固定資産税のようなものだろう。地子がかからないため、各地から職人や商人が三木に集まり、町は復興した。三木が金物の町として発展する起爆剤となったのは、この秀吉の地子免除の制札のおかげである。
本要寺宝蔵には、秀吉の地子免除の制札が、今も保存されている。
面白いのは、三木の町は、江戸時代を通じて秀吉の制札を盾に、地子免除の特権を守り続けたことである。
延宝四年(1677年)、徳川四代将軍家綱の時に検地令が出され、三木の免租の恩典が剥奪されそうになった。
三木の町民は本要寺で話し合いを行い、幕府に直訴することにした。
平田町大庄屋岡村源兵衛と平山町年寄大西与三右衛門は、秀吉の制札を根拠に免租を維持するよう、打ち首覚悟で直訴しに江戸に向かった。
二人は老中酒井雅楽頭の屋敷前で座り込みを行った。幕府は要求を飲み、免租はそのままで、二人は死罪を免れ、三木に帰ることができた。
宝蔵の隣には、三木義民と称えられた、岡村、大西の二人の墓が建っている。
徳川幕府は、豊臣家を滅ぼしたのに、なぜ秀吉の制札の有効性を認めたのだろう。それは日本の政府はあくまで朝廷であるという視点に立てば理解できる。
秀吉は天下人となって、天皇の補佐役である関白に就任した。関白の地位を甥の秀次に譲った後は、太閤となった。太閤は、引退した摂政関白に与えられる称号である。
一方徳川の当主が就任する征夷大将軍も、朝廷の役職の一つである。律令制の下では、秀吉が就いた太閤、関白の方が、征夷大将軍よりも格上である。
豊臣から徳川に政権が移ったとしても、政権が変わっただけで、政府は天皇の下にあるので、秀吉が出した制札が徳川政権下でも有効となるのは論理的におかしくない。
また、宝蔵の前には、伊木家初代当主伊木忠次の墓があった。
伊木忠次は、池田輝政の家臣で、輝政が姫路藩主になった時に三木城主となり、三木の復興に尽力した。
池田家は、後に岡山藩主となり、伊木家は藩主から備前邑久郡を与えられた。今年1月11日の当ブログ「虫明 長島」の記事にあるように、三代目以降の伊木家の墓は、備前邑久郡虫明と長島にある。
私は播磨の史跡巡りと備前、美作の史跡巡りを交互に行っているが、丁度備前の伊木家の史跡を訪れた後に、三木で伊木家の史跡に巡り合った。こうして現地に足を運ぶことで、頭の中で知識がつながっていく。これが史跡巡りの醍醐味である。
本要寺の北側には、「ひめじ街道」と呼ばれる江戸時代からの街並みが残っている。全長100メートルほどの街並みである。
卯達(うだつ)の上がった商家が続く。鋸の看板を掲げた金物問屋の建物もある。
秀吉の制札のおかげで、三木には金物職人が多く集まって、金物の町として発展した。今でも三木の金物は特産品である。
天正時代の秀吉の播州攻略の古戦場を巡ってみると、秀吉が歯向かう者は徹底して叩き潰すという残忍さを持っていたことが分かる。
しかし、その秀吉も、別所長治公の部下将兵を救おうとした気持ちに感じ入ったからこそ、三木の町に地子免除の制札を与えて手厚く保護し、復興させたのではないか。
人の気持ちは、町にも生きているものだ。