三木市立金物資料館は、三木市上の丸町にある金物神社の境内の中にある。
神社の中に、市立の資料館があるのが驚きだが、これこそ三木の町と金物との結びつきを現わしているように思う。
古代、播州では、在来の倭鍛冶と渡来人の韓鍛冶の系統が合流し、進歩の度合いを早めたという。記録上においては、韓鍛冶の技術者が多かったという。
東播地方に仏教が伝来してからは、寺院建築の需要に応じて鍛冶も順調に伸びた。
三木合戦終了後、秀吉の地子免除のおかげもあり、三木の町には大工職人が集まり、急速に復興した。
木工職人に道具を供給するために、金物生産が本格化した。
寛政四年(1792年)には、大工道具を中心に、金物職人が三木町金物仲買問屋仲間を結成。大坂方面に三木金物が出荷されるようになった。
文化二年(1805年)には、江戸打物問屋仲間と直接取引を開始した。
明治時代以降は、和鋼、和鉄のみを原材料として使用していた打刃物も、洋鋼、洋鉄の輸入によって進歩改良されていった。また一般家庭用の金物も製作されるようになった。
金物神社は、昭和10年に三木金物販売同業組合の呼びかけで創建された。
金物に縁のある古代の三神、天目一箇命(あめのまひとつのみこと、鍛冶の祖神)、金山毘古命(かなやまびこのみこと、鉄鋼の祖神)、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと、鋳物の祖神)を祀っている。
金物資料館の内部は、三木で造られた金物が展示されている。同資料館で展示している「鍛冶用具と製品」は、国登録有形民俗文化財となっている。
資料館には、多種多様な大工道具が展示されている。
例えば、釿(ちょうな)は、木材の広い面をはつるための道具で、大工道具の化石と呼ばれているそうだ。現在では建築様式の変化から使われることはほとんどなくなったが、今でも大工職人は仕事始めのことを釿初めと呼んでいるという。釿が日本の木造建築を支えてきたかがこれだけでも分かる。
展示されている道具の中で、面白かったのが大鋸(おが)である。室町時代に中国から伝わったとされる縦引き鋸である。
図のように、長大な鋸刃の両端に柄が付けられ、二人の大工が柄を引っ張って木材を切っていく。刃をぴんと伸ばすために、柄の間に丸竹を挟み、両方の柄に縄を結び引っ張っている。
この大鋸(おが)を使って出た切りくずが、「おが屑」と呼ばれるようになったという。
1930年代に三木市平田町で作られるようになった平田ナイフは、デザイン、切れ味ともよく、「肥後守」と呼ばれて、昔は携帯する人が多かった。
また、和鋼で作られた日本剃刀は、現代通常に使われている剃刀と比べて、ずっしりと重みがありそうである。大量生産品にない、本物感がある。
平成8年には、「播州三木打刃物」が国の伝統的工芸品の指定を受けた。
伝統工芸士が造った鑿が展示してあったが、何度も玉鋼を叩いて鍛えてできた刃紋が美しかった。
刃物を美しいと感じたことは今までなかったが、この刃紋は見事である。
大工は、このような多種多様な道具を駆使して、木材を加工して、立派な木造建築を作っていく。
日本の大工は、まことに古代からの伝統を背負った職人たちである。
日本には、様々な職業がある。時代と共に新しい職業もどんどん出てくる。しかし、どんな職業にも、古くから伝えられたノウハウや、職業上のこつや教訓がある筈だ。
我々は、日々の仕事を通しても、先人から伝えられた歴史に触れていると言えるのではないか。