姫路城 その2

 菱の門を潜ると、すぐ目の前に三国堀という石垣で囲まれた溜池がある。

 ここから見上げる天守もなかなかいい。

f:id:sogensyooku:20190815203706j:plain

三国堀ごしの天守

 私もここで、外国人観光客からカメラのシャッターを押してくれと頼まれた。お安い御用である。

 私は、すぐに天守には向かわずに、西の丸を先に見ることにした。

 西の丸は、姫路城の西側に建設された郭である。

f:id:sogensyooku:20190815204010j:plain

西の丸見取図

 この図で言うと、ワの櫓から化粧櫓までを渡櫓がつないでおり、中を歩くことが出来る。

 大天守西側の窓から見下ろすと、下の写真のようになる。

f:id:sogensyooku:20190815204249j:plain

西の丸の全貌

 西の丸内には、江戸時代には、西の丸御殿という御屋敷が建っていた。

 西の丸の向こう側に、こんもり木が茂った丘があるが、あれが景福寺山である。

 幕末に姫路藩を攻撃するために、備前藩が大砲を据えて姫路城を砲撃した山である。こうして見ると、指呼の間にある。あんなところから長射程の大砲で撃たれたらたまったものではない。姫路城は、固い防御力を誇る城だが、それも所詮は戦国時代の弓矢や火縄銃の攻撃を想定して造られた防備である。近代的な大砲で攻撃されるところまで想定していない。

 とは言え、備前藩池田家は、元々姫路城を造った池田輝政の末裔である。姫路藩側も、戦闘開始前に備前藩に恭順の意を伝えていた。備前藩の砲撃も、威嚇射撃程度であったらしい。本格的な戦闘にはならず、姫路城は早々に無血開城した。

 菱の門を過ぎて、西の丸に向かう坂を上る。こうして見ると、西の丸はやはり岡の上にある。

f:id:sogensyooku:20190815205844j:plain

西の丸への坂

 ワの櫓から化粧櫓までの渡櫓を別名百間廊下という。まずは入り口のワの櫓に向かう。

f:id:sogensyooku:20190815210046j:plain

ワの櫓

 ここから靴を脱いで建物内に入る。百間廊下は、姫路城からの発掘物や各種資料が展示してあって、なかなか面白い。

f:id:sogensyooku:20190815211530j:plain

百間廊下

 私は、史跡巡りを始めてから、すっかり赤松氏のファンになってしまったが、赤松氏の家紋である三巴紋の瓦も姫路城から発掘されている。

f:id:sogensyooku:20190815211655j:plain

三巴紋の瓦

 この地に城を最初に築いたのが、播州に土着した赤松氏であるのが、少し嬉しい。

 百間廊下を進むと、西の丸の防御機構を目にすることが出来る。

f:id:sogensyooku:20190815211954j:plain

石落とし

f:id:sogensyooku:20190815212033j:plain

石落としの開口部

 例えば、石落としは、西の丸の石垣をよじ登ってくる敵兵に石を落とすための仕掛けである。普段は鍵が閉められている開閉部を開けて、そこから下に石を落とす仕組みである。

f:id:sogensyooku:20190815212235j:plain

窓の格子

 また、何気ない窓の格子も、木芯に鉄板を張って、その上を漆喰で塗り固めている。火縄銃の弾ぐらいなら弾き返すだろう。

 姫路城は、白い漆喰で塗られて、白亜の優美な姿で知られるが、漆喰はあくまで防火能力を高めるために塗られたものである。防御能力を高めるための仕掛けが、ことごとく城の美しさに貢献しているのが、城郭建築史上の奇跡であると思える。

f:id:sogensyooku:20190815212940j:plain

ルの櫓

 ルの櫓を過ぎてから、長局という、廊下沿いに女中部屋が連なるエリアに入る。西の丸御殿で働いた女中達の部屋である。

 さて、姫路城と言えば、千姫が10年間を過ごした場所でもある。家康の孫であった千姫は、豊臣秀頼に嫁ぐが、大坂夏の陣で敗北した夫秀頼は自決する。

f:id:sogensyooku:20190815213641j:plain

千姫を巡る家系

 千姫は、大坂城落城の前日に、燃えさかる大坂城の炎の中から救出される。千姫は、家康に秀頼の助命を嘆願するが、受け入れられなかった。

 千姫は、大坂夏の陣の翌年である元和二年(1616年)に、本多忠政の嫡男・本多忠刻(ただとき)に嫁ぐ。元和三年(1617年)、忠政が姫路藩主になったのに伴い、忠刻、千姫も姫路城に移る。

 忠刻は、美青年だったとされる。美貌の千姫と好一対である。千姫は忠刻との間に幸千代と勝姫の1男1女を儲ける。

 元和七年(1621年)、幸千代は三歳で亡くなってしまう。長男の死は、秀頼の祟りと言われ、それから千姫は信仰に目覚めることになる。

 千姫は、天神への熱い信仰を持っていたが、城の西にある男山に天満宮を建てさせ、城の守護神であった天神木像を男山天満宮に祀らせた。

 千姫は、長局の窓から、男山天満宮に向かって、男子の出生と本多家の繁栄を祈ったそうだ。

f:id:sogensyooku:20190815214939j:plain

長局の窓から望む男山

 しかし、千姫の願いも空しく、寛永三年(1626年)、夫の忠刻が31歳で亡くなってしまう。

 千姫は、失意の中姫路を離れ、出家して天樹院と号し、70歳で亡くなるまで、忠刻と幸千代の冥福を祈り続けたという。

 百間廊下の終点は、化粧櫓である。千姫が男山天満宮を遥拝する際に、ここを休憩所にしたことから、化粧櫓という名称になったらしい。

f:id:sogensyooku:20190815215352j:plain

化粧櫓

 化粧櫓は、天井は杉柾張り、壁面は全て黒い木枠に紙を貼ったものをはめ、隅々まで技巧を凝らした建築となっている。

 今は、化粧櫓の座敷には、千姫を象った人形が置かれ、往時を偲ぶよすがになっている。

f:id:sogensyooku:20190815220055j:plain

化粧櫓の座敷

 千姫は、秀頼と忠刻という2人の夫と長男に先立たれた不幸な女性であるが、千姫が長局から男山天満宮に祈念した願いは、別の形で実現されたのではないか。それは千姫の住まいであった姫路城の永生ということである。

 千姫の人生にとって、夫や息子に比べれば、豪華な城や御殿は何ほどのこともなかったろう。

 だが化粧櫓から再び美しい大天守を見上げると、この城が生き延びたことに、千姫の祈りが少なからず影響しているのではないかと思われてならなかった。

f:id:sogensyooku:20190815220822j:plain

化粧櫓から眺める天守