12月1日に丹後の史跡巡りをした。
前々回の史跡巡りも丹後だった。間を置かずに行ったのは、本格的な冬が来る前に大江山に登りたかったからである。
大江山と言うのは、大江山山系の総称で、大江山と言う名の単独の山があるわけではない。
一般的には、大江山山系の最高峰である千丈ヶ嶽(標高約833メートル)を大江山と呼んでいる。

当ブログでも、千丈ヶ嶽のことを大江山と呼ぶことにする。
大江山は、古来鬼が棲んだ山として知られている。源頼光が退治した酒呑童子という鬼も、大江山の山頂付近に棲んでいたという。
大江山に登るには、福知山市大江町仏性寺方面から登るルートと、大江町北原方面から登るルートの2つのルートがある。


大江山の中腹である標高約640メートルの地点には、鬼嶽稲荷神社がある。この神社の手前まで舗装道が通じている。私は北原方面から舗装道を使って、スイフトスポーツで鬼嶽稲荷神社まで行った。
北原方面から進むと、途中鬼嶽稲荷神社の鳥居があった。


この北原からのルートは、車1台通るのがやっとという狭い道を行かねばならなかった。
幸い対向車両に出会うことなく鬼嶽稲荷神社の手前まで行くことが出来た。

鬼嶽稲荷神社の手前には、大江山休憩所がある。休憩所の壁に、昭和54年3月に書かれた大江山ハイキングコース案内図が掛かっている。

この図で言うと、大江山は左上にある。その東は、低山が連なっている。
休憩所に入って、東面する窓から外を見て思わず嘆声を上げた。素晴らしい雲海が目の前に広がっていた。
私がここを訪れたのは、午前9時13分頃だったが、もっと早く訪れていたら、雲海は更に厚く地表を覆っていたことだろう。



ここに神がいると感じるような神秘的な景観である。
この日の史跡巡りは始まったばかりだったが、これを見ただけでも来た甲斐があったと思った。
鬼嶽稲荷神社は、現在は稲荷大神を祀っている。
元々は、第9代開化天皇の御子日子坐(ひこいます)王が、陸耳御笠(くがみみのみかさ)というこの地の賊を征伐するに際し、大江山に登って神籬を樹てたのが始まりだという。


第10代崇神天皇の御代に、この地を訪れた四道将軍の丹波道主(たにわみちぬし)命が、父の日子坐(ひこいます)王の旧跡に神祠を建てた。神祠は、昔はもっと山頂近くにあったそうだ。
それ以降、神祠は鬼嶽大明神と呼ばれて上下の尊崇を受けた。


弘化年間(1844~1848年)に、京都の伏見稲荷大社から稲荷大神が勧請され、社殿を現在地に遷したという。



また、大江山は修験の山としても知られていたという。山中には、修験の遺跡が多く残っているそうだ。
鬼嶽稲荷神社の鳥居に向かって右側に小さな祠がある。


説明板によると、この祠は、「はしくらさん」を祀っているらしい。
はしくらさんは、恐らく阿波にある箸蔵山のことであろう。箸蔵山には、讃岐の金刀比羅宮の奥ノ院である箸蔵寺がある。
箸蔵山の修験者が、この地を訪れていたのだろう。
本殿は朱色に塗られた唯一神明造である。


朱色の唯一神明造は初めて見た。珍しいものである。
鬼嶽稲荷神社の参拝を済ませて、もう少し山を登ったところにあるという酒呑童子供養塔を目指した。

途中、千丈ヶ嶽山頂への道と供養塔への道の分岐があった。
私の旅の目的は登山ではなく史跡巡りである。今回は山頂に行くのは止めた。
さてしばらく歩くと、酒呑童子供養塔があった。

供養塔の中央には、南無妙法蓮華経のお題目が刻まれ、その右側には、「酒呑童子断迷開悟」と刻まれている。
酒呑童子に迷いを断って悟りを開くことを勧めている。


大江山麓の天座集落の人々は、酒呑童子の命日である毎年8月10日には、鎌などの刃物を一切使わないで仕事を休み、この供養塔の前で「大般若経」を唱える「鎌止め」の行事を行っていたという。
酒呑童子は、天座集落の人々には害を加えなかったという言い伝えがあるそうだ。
供養塔を前にして、不思議と酒呑童子がかつてここで本当に生きていたかのように感じた。