姫路城大天守1階から、イの渡櫓に入る。入り口は、これまた分厚い扉である。
イの渡櫓を通り、国宝東小天守に入る。東小天守内には、昭和の大修理の際に作られた、姫路城の1/20の軸組構造模型が展示されている。
昭和の大修理は、姫路城の全解体修理だった。この軸組構造模型は、安全と効率的な工事のための検討用に作られた。
昭和の大修理が、いかに一大事業であったかが分かる。
ロの渡櫓を通り、乾小天守に入ると、今度は、姫路城総構の復元模型が展示されている。
総構とは、城の一番外側の濠と土塁に囲まれた城郭全体を指す。これが最も広い意味での姫路城である。内曲輪、中曲輪、外曲輪を合わせて総構となる。外曲輪は、町人が住んだエリアである。
明治時代に姫路に鉄道が敷かれたころ、まだ総構の遺構が残っていたので、鉄道を総構内に敷くことが出来なかった。今の山陽本線JR姫路駅と播但線JR京口駅は、丁度総構の外側ぎりぎりに置かれた。その後に出来た山陽電鉄姫路駅は、総構の土塁の上に作られた。つまり、かつては、JR姫路駅のすぐ北側の、山陽電鉄姫路駅あたりまでが「姫路城」だったわけだ。
西小天守は、天守見学路の出口になっている。ここで靴を履いて外に出ることになる。
西小天守から出てしばらくすると、目の前に化粧櫓を手前に控える西の丸の全体が目に入る。
また、天守南側の備前丸(本丸)から見上げる大天守と西小天守の姿は相変わらずの威容だ。惜しむらくは、一部修復工事中で覆いがかけられていることだ。
門の右側に、巨大な石が使われているが、これは石棺である。姫路城築城時、あまりに大量の石を使うため、石不足になり、宝篋印塔の石や古墳から発掘された石棺までが石垣に転用された。
二の丸に行くと、播州皿屋敷で有名なお菊井戸がある。井戸があると、誰もが中を覗きたくなると見える。
お菊井戸の由来は、姫路城大天守が出来る100年ほど前の、永正年間の話が元となっている。この話を書いた「播州皿屋敷実録」は、江戸期の成立である。内容は荒唐無稽で、作り話であろうと思われる。この井戸も、フィクションの「播州皿屋敷実録」が書かれてから、お菊井戸とされたのではないか。
工事中の「ぬの門」を通る。この門の扉も鉄製である。手抜かりはない。
更に石垣を利用した埋門である「るの門」を通過する。
中南米の古代遺跡の門のようだ。
るの門を過ぎて、菱の門から三の丸に出て、上山里下段石垣を観る。
この石垣は、ほとんど加工しない凝灰岩やチャートを使った野面積みという工法で積まれている。信長の安土城石垣と積み方は同じで、天正年間に、秀吉が姫山に三層の天守を築いたときの石垣であると思われる。
古風で野性味溢れる石垣だ。
さて、姫路城築城前の姫山には、称明寺というお寺があり、地域の豪族や役人の墓があったという。
姫路城を築城するときに、寺を別の地に移し、寺にあった墓石などの仏石を石垣に多数利用したという。
三の丸の下山里に、石垣改修の時に出てきた仏石を利用して建てた五輪塔などの供養塔が祀られている。
墓石を使って石垣を作るなどというのは、罰当たりと思ってしまうが、それほど石が不足していたのだろう。石の来歴というものも面白いものだ。
三の丸には、池田輝政の大天守建築から昭和の大修理まで、大天守を支え続けた旧西大柱が展示されている。
旧西大柱を見ると、割れて内部が腐朽している。よくこれで昭和まで大天守を支え続けたものである。
華麗な城も、構成要素に分解していけば、ただの石だったり、木材になる。姫路城の漆喰や瓦も、元は土である。姫路城は木と石と土と僅かな鉄で作られているわけだ。それが組みあがって城になるとは、考えてみれば不思議なことだ。
そう思うと、この建築に捧げられた労力と時間は、途方もないものであると実感できる。手を抜けばすぐに劣化してしまうだろう。
これをどうにかして、次世代に引き継いでいかなければならない。