洲本市 厳島神社

 寺町の寺院巡りを終えて、洲本市本町4丁目にある厳島神社に参詣することにした。

 この神社は、地元では淡路島弁財天とも呼ばれている。

 祭神は安芸の宮島厳島神社と同じ市杵島姫(いちきしまひめ)命である。

 市杵島姫命神仏習合の過程で、いつしかインド由来の水と芸能の神様弁財天と同一視されるようになった。

厳島神社の赤鳥居

 明治の神仏分離令までは、住民は弁財天として親しんでいたことだろう。

 厳島神社の赤鳥居から境内まで参道が続くが、参道には食堂や寿司屋といった飲食店や、スナックやニューハーフバーなどの入った雑居ビルなどが軒を連ねている。

参道の飲食店街

 通常参道には、参拝客目当ての土産物屋などが並ぶものだが、ここは地元の酔客相手の飲み屋などが並んでいる。

 神社参道と繁華街の組み合わせが、アジア的な雑然と混沌を思わせて、なかなか面白い。

 芸能の神様弁財天は、むしろ酔客のカラオケをお喜びになるかも知れない。

 カオスな参道を抜けると、厳島神社境内に辿り着く。

厳島神社

 厳島神社の創建年代は分らぬが、江戸時代初期まで徳島藩の淡路での政庁のあった由良には今でも厳島神社がある。

 寛永八年(1631年)の由良引けで、政庁が由良から洲本に移された。その時に由良から洲本に移った寺院は多数ある。

 厳島神社も、由良引けの際に由良から洲本に勧請されたのではないだろうか。

 境内には、淡路出身の幕末の国学者鈴木重胤の歌碑や、松尾芭蕉の歌碑がある。

鈴木重胤の歌碑

 鈴木重胤の歌碑には、「まつ杉は まだほの闇き 木の間より 曙いそぐ 山桜かな」という歌が刻まれている。

 鈴木重胤は、平田篤胤に入門を請うたが、篤胤に面会を果たさぬうちに篤胤が死去したため、弟子入りは叶わなかった。

 その後重胤は、津和野出身の国学者大国隆正に師事した。

 重胤には、「日本書紀伝」などの著作がある。文久三年(1863年)に刺客に暗殺された。

 重胤は、宗像三神信仰を研究し、廃れつつあった各地の宗像信仰を復興させたという。

 宗像三神の一柱、市杵島姫命を祀る厳島神社に自身の歌碑を建てられて、重胤も本望だろう。

芭蕉句碑

 芭蕉の句碑には、「雲折々 人を休むる 月見哉」という句が刻まれている。

 天保十四年(1843年)に、洲本の俳人冨艸(ふそう)が、芭蕉150回忌を記念して建てた句碑らしい。

 厳島神社には、稲田氏の祖先を祀る稲基(いなもと)神社があったが、明治3年の庚午事変後の稲田家家臣の北海道静内への移住を機に、静内に移転した。

 今は稲基神社があったことを示す石碑があるだけである。

稲基神社と刻んだ石碑

 この石碑は昭和51年に建てられた。静内には、今でも稲基神社が建っているそうだ。

 その隣には、庚午事変を舞台に激動の人生を送った女性の生涯を描いた船山馨の小説「お登勢」の碑がある。

お登勢の碑

 お登勢は、洲本の貧家から稲田家家臣に嫁ぎ、庚午事変を経て静内に移住した女性として描かれているらしい。

 厳島神社の社殿は、新しい銅板葺の屋根を持つ建物である。

拝殿

本殿

 毎年11月21日から3日間行われる厳島神社の秋の例大祭は、淡路最大の祭りで、最終日には御神体を背負った白装束の男たちが洲本市街を練り歩くそうだ。

 稲田家と庚午事変に関する史実は、後世数々の物語を生んだ。

 稲田家家臣に限らず、明治以降に北海道に移民した人たちは、それぞれ様々な理由や目的を持って移住したことだろう。

 そう考えれば、北海道の住民の出自を巡る物語は、どれも興味深いものである。

洲本市 専称寺 江国寺

 遍照院から道を挟んで南側にあるのが、浄土宗の寺院、心念山専称寺である。

 地名で言うと、洲本市本町8丁目になる。

専称寺山門

 この寺には、庚午事変(稲田騒動)に関わって刑死、獄死した徳島藩士22名を追悼した庚午志士之碑がある。

 慶応三年(1867年)の大政奉還により、日本の政治の実権は徳川幕府から朝廷に戻ったが、明治政府が受け継いだ幕府の直轄領以外の土地と人民の支配権は、地方に割拠する各藩が握っていた。

 各藩の収入は明治新政府には入らず、全て藩主に入っていた。藩主はその収入から藩士を養っていた。つまり藩士は藩主の私兵であった。

法然上人像

 封建制度というものは、武力を持った殿様が、その武力を用いて一定の土地と人民を支配し、私物化する制度である。

 身も蓋もない言い方をすれば、暴力団組長が組員を使って土地と人民を支配し、勝手に徴税しているようなものである。

 現代の自衛隊や警察や海上保安庁といった武力を持った組織の人間は、公務員として国民のために働くことを求められ、税金で養われている。

専称寺本堂

 しかし封建時代の武士たちは、領民のためには働かず、藩主と藩の維持のために働いていた。

 このような制度を残していては、欧米のような国民国家を築き、国家のために戦う統一された軍隊を持つことは出来ない。

 藩という私兵集団を無くすことが、日本近代化の第一歩であった。

本堂の中の閻魔大王

 明治2年の版籍奉還で、藩主が私有していた藩の領地と領民が、日本政府に奉還されることになった。版は版図で領地のこと、籍は戸籍で領民のことである。版籍奉還大政奉還の地方版である。

 この時点では、藩は消滅しておらず、政府直轄地の府県と藩が併存していた。

 藩主は、藩知事という役になり、藩の収入の1/10が給与として支給されることになった。藩知事の役職は世襲が認められた。

 また武士の中で平士(ひらざむらい)以上は士族、足軽以下は卒という身分になって、藩の収入の中から俸禄を支払われた。

 今までは藩の収入は全て藩主のものになって、藩主が藩士に俸禄を払って養っていた。その代わり藩士は藩主に忠誠を誓った。

 版籍奉還後は、藩知事藩士も、藩という行政機構から給与をもらうようになったので、形式上は藩主と藩士は同列になり、主従関係はなくなった。

庚午志士之碑

 昨日の記事で紹介したように、淡路は徳島藩主蜂須賀家の家老稲田家の所領であった。

 稲田家の家臣は、藩主からしたら家臣の家臣、つまり陪臣である。稲田家の家臣は、版籍奉還に伴う禄制改革では、陪臣だったため一律に士族よりも低い卒の扱いになった。

 これに不満を覚えた三田昂馬を始めとする稲田家家臣は、徳島藩からの分離独立を明治政府に求めた。

 もし淡路が徳島藩から独立したら、淡路から入る収益が徳島藩の直臣に入らなくなる。

 これに危機感を覚えた徳島藩直臣は、明治3年5月13日未明、800名の兵を率いて稲田家の公邸や家臣の屋敷を襲撃した。

庚午志士之碑に刻まれた徳島藩士の名

 稲田家側は無抵抗で殺され、即死者15名、自決2名、重軽傷者20名の被害が出た。

 明治政府は、襲撃事件に加担した徳島藩士90余名を断罪し、稲田家家臣には北海道静内への移住開拓を命じた。開拓した土地を稲田家家臣の所領とするというのである。

 これが庚午事変、またの名を稲田騒動という。

 先ほど武士の支配を暴力団の支配に例えたが、一度例えてしまうと、これなども暴力団同士のシマを巡る争いと構図が全く一緒に見える。

 庚午事変に関わり刑死、獄死した22名の徳島藩士は、明治22年大日本帝国憲法発布の大赦により無罪となった。その際、刑死者を追悼するために建てられたのが、専称寺の庚午志士之碑である。石碑には恩赦された22名の名が刻まれている。

 専称寺から歩いて洲本市栄町3丁目にある臨済宗の寺院、江国寺に行く。

江国寺山門

 こちらには、庚午事変で亡くなった稲田家の人々の霊を鎮める招魂碑が建っている。

招魂碑

 北海道移住を命ぜられた稲田家家臣たちは、その後苦難の歴史を歩んだようだ。

 明治4年8月、稲田家家臣の移民団を載せて洲本を出港した平運丸は、紀州沖で遭難し、83名もの行方不明者を出した。

 北海道に辿り着いた人々も、厳寒の地で厳しい開拓生活を送らなければならなかった。

 稲田家家臣の苦難の開拓生活を描いたのが、平成17年に公開された映画「北の零年」である。

江国寺本堂

 江国寺の境内には、稲田家歴代当主の墓がある。この寺は、稲田家の菩提寺であったようだ。

 

歴代稲田家当主の墓地

 墓域に入ると、数多くの墓石が建っている。それぞれの墓石の前には、当主の名前と生没年を書いた立て看板がある。

 私が尋ね当てた最も古い当主の墓は、第3代当主の稲田植次(たねつぐ)のものであった。墓石にも慶安五年(1652年)に没したと書いてある。

稲田植次の墓

 また最も新しいのは、第16代当主の稲田邦植のものであった。昭和6年に没したらしい。

稲田邦植の墓

 稲田邦植も、静内に移住したそうだが、後半生は洲本に戻った。人生の最後は祖先の眠る洲本の地で迎えたかったのだろう。

 また、境内に一際大きな一対の石造五輪塔があった。

大きな石造五輪塔

 これなども稲田家と関係のあるものだと思うが、説明板がないため、どういう由来のものかは分からなかった。

 明治4年に施行された廃藩置県によって、藩は名実ともに消滅した。

 明治政府の新しい兵制では、士族だけでなく平民からも兵士を徴集することになった。藩の収入では、士族以外の兵士を維持することが出来なかった。

 負債を抱えた藩を預かる藩知事は、明治政府の廃藩置県の方針に反対せず素直に従った。藩は府県に吸収された。

 こうして私たちに馴染みのある都道府県制が出来て、日本は中央集権国家となり、近代化への道を歩み始めた。

 庚午事変に伴って流された刑死者や犠牲者の血は、日本が封建国家から近代国家に生まれ変わる際に生じた激動によって流された血である。

 流血を伴わずに時代に合わせて社会を変革できる政治制度の尊さをつくづく感じる。

洲本市 千福寺 遍照院

 旧鐘淵紡績洲本工場跡地から、洲本市内の寺町というエリアに行く。

寺町

 江戸時代初頭、徳島藩は、淡路の政庁を由良湊に置いていたが、由良が地理的に不便であったため、寛永八年(1631年)に政庁を洲本に移した。これに伴い、武家や町人だけでなく寺も洲本に移転した。これを「由良引け」という。

 寺町は、徳島藩が洲本の町を形成する際、町の西側の防衛のために寺院を数多く建てた場所である。

 戦国時代には、土塀や石垣を巡らした寺院は、戦時には防衛拠点の役割を果たしていた。江戸時代初期には、まだその習慣が残っていたのだろう。

 この寺町の中で、まずは洲本市栄町4丁目にある真言宗寺院、千福寺を訪れた。

千福寺山門

 千福寺には、洲本最古の仏像と言われる薬師如来坐像がある。

薬師堂

千福寺薬師如来坐像のポスター

 毎月8日は、お薬師様の日として護摩供養がなされているようだ。この薬師如来坐像は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての作とされている。写真で見ただけだが、なかなかいいお顔の像である。

 薬師如来は、左手に薬壷を持っている。古くから病の苦しみを抜いてくれる仏様として信仰されてきた。

 医学が発達していない時代には、人々は藁にもすがる思いでお薬師様に祈ったことだろう。

 また本堂には、南画家の直原玉青が描いた襖絵「鳴門渦潮」があるそうだ。

本堂

 本堂に接続して、愛染明王を祀るお堂がある。

愛染明王を祀るお堂

お堂内部

 密教寺院の修法壇上には、多宝塔が据えられているが、これにどういう意味があるのか知りたいものだ。

 千福寺の南隣にある遍照院も真言宗の寺院である。

遍照院仁王門

仁王像

 この寺は、数多くの仏像を公開する寺院であった。

本堂

 この寺院には、木食観正(もくじきかんしょう)上人の坐像が祀られている。

木食観正上人を祀るお堂

 木食観正上人は、俗名を喜作と言い、宝暦四年(1754年)に洲本大工町で生まれた。     

 30歳になって、地蔵寺(現遍照院)で得度し、爾来約20年間蝦夷地(北海道)を除く全国を廻国修行した。

 上人が行った修行は、木食行と呼ばれるものである。穀物を断って、草の根や木の皮だけを食べる木食戒を守りながら、仏道修行に励むものである。

お堂内部

 この木食行は、極めて危険な修行のため、明治以降禁止されているが、木食観正上人は木食行を続ける内に霊力を得て、数々の奇跡を起こし、人々から「今弘法」と呼ばれ熱烈に信仰されたそうだ。

 秀吉と交渉して、秀吉の高野山攻めを阻止した木食応其(おうご)上人も、木食行を行った人物である。

 弘法大師空海も、死期を覚ると穀物を断ったという。木食は、人間の体になにがしかの変化を与えるのだろうか。

 さて、遍照院境内には、様々な石碑や墓がある。

芭蕉句碑

 文化元年(1804年)に洲本の俳人達によって建てられた芭蕉句碑がある。

 有名な「もの言へば 唇寒し 秋の風」の句が刻まれている。 

 その隣には、寛保元年(1741年)から文化十二年(1815年)までを生きた、徳島藩洲本学問所の教官で、淡路一の碩学と呼ばれた藤江石亭の墓がある。

藤江石亭の墓

 その隣には、徳島藩士大村純安の墓がある。

 大村純安は、嘉永三年(1850年)から明治3年(1870年)までを生きた人物である。

庚午事変(稲田騒動)の後に切腹を命じられ、数え21歳で死去した。

大村純安の墓

 明治新政府による明治2年の版籍奉還で、武士たちの禄制改革が進められた。

 淡路は徳島藩蜂須賀家の家臣稲田氏が領していたが、蜂須賀家の陪臣という立場になる稲田家の家臣たちは、禄制改革で士族ではなく卒という身分にされ、低い俸禄を支給されることになった。

 これに不満を覚えた稲田家家臣たちは、新政府に対し、徳島藩からの淡路の独立を訴えた。

 徳島藩の直臣の一部は、淡路の独立を阻止するため、藩兵を率いて稲田家家臣たちを襲撃し、多数を殺害した。これが明治3年に発生した庚午事変である。

 大村純安は、稲田家家臣を殺害したことで、明治政府から切腹を言いつけられた。純安の切腹は、我が国最後の切腹刑と言われている。

 境内には、ガラス張りのモダンなお堂がある。

ガラス張りのお堂

 このお堂は、月夜大師を始め様々な仏像を祀っているお堂である。

お堂内部

 お堂中央に祀られているのは、月夜大師の石像である。

月夜大師の像

 石像の右上に三日月が彫られている。

 空海が修行中、夜中に今の徳島県阿南市の月夜村を通りかかった時、あまりの暗闇に困難を覚えたので祈念したところ、月が出て月明りで歩行が出来るようになったという伝説がある。

 月夜大師像はその伝説から来ている。この像は明治になって作られた像である。

 その隣には、弘法大師金剛界大日如来と同じ智拳印を結んで宝冠を戴いた姿となった、我即大日の弘法大師像がある。

我即大日の弘法大師

金剛界大日如来坐像

 我即大日は、我即ち大日如来という意味である。自分がそのまま大日如来だという即身成仏の思想を現している。

 大日如来は、宇宙の真理そのものを象徴する法身仏だが、何も大日如来像のような人間の姿をしてこの世界のどこかに存在しているというわけではない。

 真言密教では、大日如来を始めとする諸仏は、全て人の心の中にしまい込まれた機能と見ている。

 自分の心を拝むのも掴みどころがないので、取り敢えず人間の形をした仏像を作って拝んでいるのである。

 宇宙の姿を描いたとされる胎蔵曼荼羅には、如来や菩薩や明王や天部の神様など、400を超える仏が描きこまれているが、あれは人の心の本来の姿を描いているのである。

不動明王

 人は生まれながらにして仏の機能を心の中にしまい込んでいるのだが、煩悩で心が曇っているためにそれに気づかない。

 曇った鏡を磨いて光を取り戻すように、修行によって自分が本来仏であることに気づくことを密教は目指している。

 護摩行も阿字観も真言を唱えるのも、心の曇りを払うためである。

 心の曇りを払えば、自分が大日如来であると同時に不動明王でもあり観音菩薩でもあり、弘法大師と同じであることに気づくことになる。

 四国八十八ヶ所巡礼では、同行二人(どうぎょうににん)と言って、巡礼中一人で歩いていても、弘法大師がいつもついてくれているとされている。

 また巡礼中、誰もが一度は弘法大師に出会うと言われている。

 これは、巡礼中に心の曇りが取れれば、自分の心と弘法大師の心が本来同じであることに気づくことを指しているのだと思われる。

 勿論、曇り続けたまま一生を終えても構わない。心が曇っていても、我即大日であることに違いはないからである。

 私には、心を曇らせたまま、苦闘しながら一生を終える方が、人間らしくていいような気がする。

旧鐘淵紡績洲本工場跡

 兵庫県洲本市塩屋1丁目に、赤煉瓦の建物が多く建っている。

 明治42年(1909年)にこの地に誘致された鐘淵(かねがぶち)紡績株式会社(現カネボウ)の洲本工場跡地である。

 赤煉瓦の町と言えば、舞鶴や横浜や函館が有名だが、実は洲本も赤煉瓦の町なのである。これは意外であった。

 今では、赤煉瓦工場跡の建物を改装して出来た、レストランや喫茶店、土産物屋が入った施設が複数開館している。

淡路ごちそう館 御食国(みけつくに)

淡路ごちそう館の天井

 鐘紡は、日本を代表する紡績業者で、明治33年(1900年)に地元の淡路紡績会社を買収して、生産拠点を洲本に移した。
 鐘紡が工場を建てたこの地は、元々洲本川が流れていた。明治の改修工事まで、洲本川の土砂が河口に堆積し、洲本港には大型船が入港できなかった。

 洲本町長の岩田康郎は、明治35年(1902年)から2年かけて洲本川の付け替え工事と洲本港の改修工事を行った。
 その結果、洲本川はここから北の現在地を流れるようになった。埋め立てられた旧洲本川跡の更地に建てられたのが、鐘紡の赤煉瓦工場である。

鐘紡工場跡地の石碑

鐘淵紡績洲本工場開業式当日の写真

鐘淵紡績洲本工場の歩み

 鐘紡洲本工場は、日本における当時最新鋭の綿紡織工場で、昭和12年(1937年)には規模を拡張し国内最大の綿紡織工場になった。
 明治時代の日本の最大の輸出品は、衣類や布であったのだ。

 大東亜戦争で生産設備が壊滅的な被害を受けたが、戦後復興し、昭和61年の工場閉鎖まで洲本市の象徴的企業として稼働していた。

SUMOTO ARTISAN SQUARE

 赤煉瓦の建物の間は、広い芝生を控えた空間になっている。昼下がりの長閑な日が落ちた芝生の上を、観光客や会社員などが散策している。
 赤煉瓦街にあるのは、レストランや喫茶だけではない。洲本市立図書館があり、文教地区にもなっている。

洲本市立図書館

 私は、煉瓦造りの建物と近代的な建物が融合した洲本市立図書館の中に入った。

 郷土史のコーナーに行くと、阿波徳島藩に関する書籍が多い。淡路全島は、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀家の領地であった。

 淡路を実際に領したのは、蜂須賀家筆頭家老の稲田家であった。淡路は蜂須賀家の直轄領ではなかったのだ。

 そのためか、淡路は現在兵庫県に属しているが、文化圏としては完全に四国の文化圏に属していると思う。

S BRICK 旧鐘紡工場跡赤煉瓦倉庫

 淡路は、古代の行政単位では、紀伊、阿波、讃岐、土佐、伊予と共に南海道を構成していた。

 この南海道に共通するのは、弘法大師空海真言宗との関りが深い事である。ここには、紀伊高野山はもとより、若き空海の修行地跡とされる四国八十八ヶ所霊場がある。

 淡路にも真言宗寺院が多い。

 私の家の宗派も真言宗だが、私の祖先は阿波の国人で、戦国時代に阿波で帰農して、江戸時代初期に淡路島南端の地に移住してきたそうだ。

 自分の宗派と祖先のことを顧みると、自分の根っこが分る気がする。

 淡路から阿波を巡る旅は、私のルーツを探る旅になりそうだ。

 ところで鐘紡洲本工場は、昭和60年の円高不況で命脈を終え、翌年閉鎖された。衣料は、もっと人件費の安い国で作られるようになった。

 私が中高生時代を過ごした兵庫県相生市も、石川島播磨重工業企業城下町だったが、昭和60年の円高不況で造船業はアウトになった。

 昭和60年は、日本の風景を変えた年であった。

炬口城跡

 炬口(たけのくち)八幡神社の裏の万歳山上にあるのが、炬口城跡である。

 炬口城は、永正二年(1505年)に安宅(あたぎ)監物秀興が築城したと伝わっている。安宅氏は、地元の国人である。

万歳山

 この城跡への登り口は、万歳山の東側にある事代主神社の北側の道を西に歩くと現れる。

事代主神

事代主神社北側の道

登り口

 舗装されたコンクリートの階段を登り切ると、登山口と書いた案内板がある。

登山口の案内

 ここから山道となるが、万歳山は、山と言うよりは丘陵と言ってよいような低山である。

 城跡にはすぐに到達できる。

 途中、印象的な巨木があり、その周囲に石垣がある。石垣の周りには、古い瓦の破片が落ちている。

印象的な巨木

石垣

石垣の周囲の瓦

 この石垣や瓦が、炬口城跡のものかどうかは分からない。

 石垣は低いので、城の遺構ではないだろう。

 恐らくだが、かつてここに小さな神社があったのではないか。これらのものは、その神社の石垣と瓦であろうと思われる。

 この石垣から南に向かって道が伸びている。左右は竹林である。

城跡への道

 道は、途中起伏があるが、歩きやすい道である。しかしこの道を真っ直ぐ行っても城跡には到達しない。

 途中、戎神社と秋葉山神社への方向を示した案内板がある。

案内板

 案内板のある場所から道を真っ直ぐ南に歩くと秋葉山神社方面になる。私は当初間違えて真っ直ぐ歩いたが、どこまで行っても城跡が見えてこないので、一旦引き返した。

 実はこの説明板から西に行く道がある。それが城跡への道である。

城跡への道

 城跡への道を真っ直ぐ歩くと、高い切岸に行き当たる。ここが炬口城跡の本丸跡である。

炬口城跡の切岸

 この切岸に行き当たってから右に行くと、深い堀切がある。

深い堀切

 切岸を左に回ると、炬口城跡入口と書かれた案内表示がある。

炬口城跡入口の案内表示

 ここを右に入ると、炬口城跡の虎口がある。

虎口

 この虎口から炬口城跡の本丸跡の主郭に入ることが出来る。

 本丸跡は、北、東、南側が土塁で囲まれている。西側は崖になっている。

 土塁は明瞭に認識できる。だが城内は木が鬱蒼と生い茂っていて、表示がなければここが城跡だと気づかない人もいるだろう。

土塁跡

石積みの跡

 大永八年(1528年)、炬口城主安宅秀益は、当時阿波、淡路を支配していた三好氏に叛旗を翻す。

 しかし三好氏配下の諸将に攻められて炬口城は落城する。安宅氏は、三好長慶の弟冬康が養子に入って継ぎ、三好氏の傘下に入った。

 安宅氏は、淡路水軍を率いた地元国人だった。

 炬口城跡は、安宅氏が三好氏に屈服する前の、独立し意気盛んだった時代の名残として、今も山中にひっそりと残っている。

炬口八幡神社 春陽荘

 兵庫県洲本市下加茂2丁目付近は、弥生時代前期の水田跡や、中期の周溝墓が発掘された下加茂遺跡があった辺りである。

下加茂遺跡のあった辺り

 しかし今は遺跡があったことを示す表示はない。

 下加茂1丁目にある蒼開高等学校は、かつて柳学園高等学校と呼ばれていた。

 昭和38年の柳学園高等学校の建設工事中に発掘されたのが、弥生時代後期の住居址である下加茂岡遺跡である。

下加茂岡遺跡があったことを示す表示

 下加茂岡遺跡からは、隅丸方形の竪穴住居跡や土器類などの当時の生活用具が見つかった。

 洲本平野には、弥生時代全域を通して田が作られ、集落が点在していたようだ。

 人間が生活している光景というものは、いいものだ。我々の今の生活も、後世の人から見たら、生きた遺跡である。

 弥生時代後期は、古墳時代前期に接続しているが、柳学園高等学校の裏山から発掘されたのが、淡路島内唯一の古墳時代前期の古墳、コヤダニ古墳である。

コヤダニ古墳のあった辺り

 コヤダニ古墳のあった辺りは、今は蒼開高等学校の敷地内なので近寄れない。

 コヤダニ古墳からは、三角縁神獣鏡が1枚発掘された。三角縁神獣鏡は、淡路ではこの1枚しか見つかっていない。

 洲本が古墳時代前期のころから淡路の中心だった証である。

 洲本市宇山3丁目の辺りは、弥生時代の前期~後期の遺跡である武山遺跡のあった場所である。

武山遺跡のあった辺り

 ここも遺跡があったことを示すものは何もない。人が生活した痕跡は、すぐになくなってしまうものだ。

 次に訪れたのが、洲本市炬口(たけのくち)2丁目にある炬口八幡神社である。

炬口八幡神社

神門

 炬口八幡神社の祭神は、八幡大神こと応神天皇神功皇后玉依姫(たまよりひめ)命である。

 延喜二十一年(921年)に、京都石清水八幡宮の分霊を勧請して創建されたそうだ。

 拝殿は再建されたばかりの真新しいものだった。

拝殿

本殿

 本殿は、オーソドックスな三間社流造である。
 この神社には、国指定重要文化財である伝新田義貞着用の甲冑が伝わっている。大永七年(1527年)に炬口城主の安宅吉安が奉納したものであるという。境内の宝物庫に収蔵されていることだろう。

宝物庫

 この甲冑は、毎年3月27日の春祭りの際に公開されるらしい。

 湊川の合戦で敗れた新田勢が淡路に落ち延びたという伝承は、淡路各地に残っている。

 新田氏は源氏であり、源氏の氏神である八幡大神とは所縁が深い。

 炬口八幡神社から西に歩くと、洲本市宇山2丁目に近代和風建築の春陽荘がある。

春陽荘

春陽荘正門

 春陽荘は、昭和16年造船業で富を得た岩木氏の邸宅兼事務所として建てられた。

 現在は国登録有形文化財になっている。

 この建物は、風水の思想に基づいて棟が配置されている。敷地中央の寝室棟(土気)を基準に、東南に住居棟(火気)、西南に事務所の洋館(金気)、北西に客室棟(水気)、北東に茶室・浴室(木気)が配置されている。

寝室棟

住居棟

洋館

洋館玄関付近

客室棟

 春陽荘は、現在は体験宿泊施設として公開されているが、私が訪れた時は中には入ることが出来なかった。

 今回紹介した史跡は、地域的には半径数キロメートルの狭いエリア内にある。

 弥生時代の遺跡跡、古墳時代前期の古墳跡、平安時代に創建された神社、戦国時代に奉納された南北朝時代の甲冑、昭和初期の近代和風建築と、狭いエリアにまるで地層の重なりのように人間の生活の痕跡が上書きされている。

 私たちが今住む町の一角も、何も痕跡が残っていなくても、必ず古い人たちの生活の跡に上書きされて出来た場所なのである。

西北山蓮光寺 芽黒竹

 先山から下りて次なる目的地に向かう。

 兵庫県洲本市下内膳にある洲本市立加茂小学校の周辺は、弥生時代の前期から後期にかけての集落跡のあった下内膳遺跡が発掘された場所だが、遺跡があることを示す案内板等はない。

下内膳遺跡周辺

 ここから西に行き、洲本市上内膳にある真言宗の寺院、西北山蓮光寺に赴いた。

 蓮光寺は、万治元年(1658年)に蓮光寺裏の鶴岡八幡宮の神宮寺として創建された。

西北山蓮光寺

 「兵庫県の歴史散歩」上巻によれば、この寺には正中二年(1325年)の銘のある梵鐘があるとのことだったが、境内に鐘楼らしいものは見えなかった。

 この寺院は、淡路四国八十八ヶ所霊場第二番である。第一番の千光寺から続いて、第二番の寺院に参詣したことになる。

 蓮光寺境内で目を惹くのは、洲本市有形文化財の二重宝塔太子堂である。

二重宝塔太子堂

 太子堂は、明和八年(1771年)に、洲本市山手にある洲本八幡神社の神宮寺である龍宝院に建立された。

 明治元年廃仏毀釈で龍宝院は廃寺となり、太子堂も解体される予定であったが、明治5年に蓮光寺に移築され、命脈を保つに至った。

 聖徳太子を祀るのは、大体天台宗の寺院であるが、この優美な建物を後世に伝えるため、他宗派の真言宗寺院が名乗りを上げたのだろう。

唐破風の軒下の彫刻

彫刻群

斗栱と尾垂木

一層目の斗栱

手挟み

二層目の斗栱

 細部の彫刻の見事さや、斗栱と尾垂木の複雑な構成など、見応えのある建物だ。

 現在は洲本市文化財だが、年月の経過と共に価値を認められ、いずれは国指定重要文化財になりそうな建物である。

 本堂には、十一面観音菩薩坐像を祀ってある。

本堂

十一面観音菩薩坐像

 金色に輝く優しそうな御像であった。

 洲本市納字波毛には、古墳時代中期の集落跡が発掘された波毛遺跡があった。

波毛遺跡のあった辺り

 現在リサイクルショップのセカンドストリートのある辺りだ。

 この辺りは、商業施設が並んでいて、車の往来も多く、渋滞していた。淡路島で最もにぎやかな一帯だろう。遺跡があったことを示すものはない。

 次に先山の西麓である洲本市奥畑にある兵庫県天然記念物芽黒竹(メグロチク)の自生地を訪れた。

芽黒竹自生地

 芽黒竹は、節と節の間の芽溝部が黒くなっている珍しい竹である。
 奥畑の白山神社前の道路を北に約200メートル進むと、左手の山麓に立て看板が見えてくる。その一帯が芽黒竹の自生地である。

芽黒竹

 なるほど確かに節の間が黒い。

 洲本は小さな町であるが、淡路では中心となる町である。これから小まめにこの町の史跡を紹介していきたい。