先山千光寺 後編

 山門を潜ると、すぐ右手に三重塔がある。

 私が史跡巡りで訪れた23番目の三重塔である。淡路では初めて見た三重塔である。恐らく淡路唯一の三重塔だろう。

三重塔

 この三重塔は、文化十年(1813年)に高田屋嘉兵衛らの尽力により再建されたものである。

 1階屋根は瓦葺ながら、2,3階は銅板葺という建物だ。

初層

第二層

石段

石段手摺の獅子

 古びた石段を登ると、初層東側の扉が開いており、網越しに中に祀られている大日如来坐像を拝見することが出来た。

大日如来坐像

 智拳印を結んでいるので、金剛界大日如来坐像である。柱や台座の色彩が剥落しているが、創建時は鮮やかな色彩に彩られていたことだろう。

 ここで大日如来真言を唱えた。「オン アビラウンケン バザラダトバン」。

 さて、この三重塔の尾垂木の上には、獅子や邪鬼の彫刻が置かれて軒の重さを支えている。

 初層の四隅の彫刻は間近で見ることが出来る。

獅子

謎の生き物(逆立ちした獅子像が風化したものか)

邪鬼

邪鬼

 二層目にも邪鬼はいるが、我がRX100の貧弱な望遠性能のため、1体しか写真に収めることが出来なかった。

二層目の邪鬼

 三重塔をぐるりと眺めて、次に本堂に参拝する。

本堂

 本堂の前には、猪の石像一対が置かれている。

猪の石像

 延喜元年(901年)、播磨国の猟師忠太が、播州の山で為篠(いざさ)王という白い猪に矢を射かけた。

 為篠王は、矢が刺さったまま海を渡り、先山の大杉の洞に逃げ込んだ。

 海を渡って追いかけた忠太が洞に入ると、そこに胸に矢を受けた千手観音像があったという。

 忠太は悔い改め、出家して寂忍と称した。そして、千手観音像を祀るため、千光寺を建てた。

 本堂前の猪の石像は、その寺の縁起に因んで置かれたものだ。

本堂唐破風

龍の彫刻

 本堂では、法要が行われていて、参会者が揃って十三仏真言を唱えていた。

本堂内

千手観音像

 本堂奥に祀られている千手観音像は、どう見ても延喜元年のものではなく、新しい像である。伝説の真相はどうあれ、猟師が殺生を悔やんで出家したというのは、あり得る話だ。

 本堂の西側には金毘羅大権現が祀られた祠がある。その側に金毘羅大権現の石像があった。

金毘羅大権現

 金毘羅様は、航海の神様である。海に囲まれた淡路島の人々にとっては、馴染みのある神様だろう。

 ところで、千光寺だけでなく淡路の山岳寺院では、団子転がしという風習がある。

 35日供養の時に、遺族がおにぎりを山上から投げるという風習である。米が高価な時代には、団子を投げていたそうだ。

 日本の古い民間信仰では、死者の霊は山に行くと言われている。死者の霊が山に行くのを邪魔する悪霊の気を引くため、遺族が食べ物を投げたというのが起源だとされている。

 いつしか、その習俗が仏教に取り入れられ、35日法要で死者が閻魔大王の審判を受ける際、餓鬼に食べ物を施して功徳を積み、死者の立場が良くなることを願うようになったようだ。

六角堂

 千光寺の六角堂には、閻魔大王六地蔵が祀られている。35日法要で山におにぎりを投げた遺族は、六角堂で閻魔大王六地蔵におにぎりを捧げるという。

 お盆の墓参りもそうだが、日本では、元々仏教と何の関係もない民間習俗が、仏教に取り入れられている例が多い。

 明治以後、仏教思想を純粋な哲学的思惟として見る学者たちは、そのような民間習俗を「仏教ではない」と忌み嫌った。

 私は、仏教の思想と関係がない習俗でも、それで人々の気持ちが安らぐのならば、それはそれでいいではないかと思う。

 最近、五来重(ごらいしげる)という、仏教民俗学を確立した昭和の学者の著作に興味を覚え始めている。

 五来は、本来の仏教思想である釈迦の覚りと無関係の、死者の供養といった日本の民間習俗を生涯を賭けて研究し続けた学者である。いつか当ブログでも、五来重の著作の内容を紹介できる時が来るだろう。

 境内には、鐘楼があるが、ここにかかる梵鐘は、弘安六年(1283年)の銘のある淡路島最古の梵鐘である。

梵鐘

梵鐘

 この梵鐘は、室町時代に売り払われたらしいが、炬口城主安宅秀興の手で買い戻されたそうだ。

 今の仏教は、葬儀や法要しかしない葬式仏教と揶揄されているが、それはそれで民衆が寺院に求めている機能の一つである。それだけでなく、信徒に教えを伝える活動を地道に続けている寺院も多い。

 私たちの方も、寺院にもっと親しみを感じて、仏事以外の時でも気軽に足を運んでもいいのではないかと思う。

先山千光寺 前編

 3月12日に淡路の史跡巡りを行った。

 今回訪れるのは、淡路島内の中心都市である洲本市の史跡である。

 淡路には、縄文時代から弥生時代にかけての遺跡が多くある。兵庫県洲本市安乎(あいが)町平安浦に、縄文時代前期から晩期にかけての遺跡である安乎間所(あいがまどころ)遺跡があるというが、現地に行っても遺跡があったことを示すものは何もない。

 付近にある安乎八幡神社を訪れた。

安乎八幡神社

拝殿

本殿

 境内を歩いたが、ここにも遺跡の存在を示すものはなかった。

 縄文時代に淡路に集落があったということは、当時既に海を越える航海技術があったということになる。

 ここから洲本市上内膳の先山にある真言宗の寺院、先山千光寺を目指した。

先山

 先山は、標高約448メートルの秀麗な形をした山で、その山容から淡路富士とも呼ばれている。

 伊弉諾尊伊弉冉尊の国生みの際に、淡路島の中で真っ先に作られたのがこの山だという伝承から、先山と呼ばれているらしい。

 神話では、日本列島の中で最初に生まれたのが淡路島だから、先山は日本列島の中で最初に生まれた土地ということになる。

 この先山の山頂にあるのが、真言宗別格本山の千光寺である。

 山頂まで、狭いながら道路が続いており、車で参拝することが出来る。

千光寺の石柱

 千光寺は、淡路四国第一番霊場で、淡路十三仏第一番霊場でもある。創建は延喜元年(901年)である。

 淡路を代表する霊場として、島民の信仰を集めている。

 駐車場から歩くとすぐに「別格本山千光寺」と刻まれた石碑が見えてくる。

 その先に、急な石段がある。

石段

 石段を登り切ると、正面に淡路十三仏の第一番の不動明王を祀る大師堂がある。

大師堂

蟇股の三鈷杵の彫刻

 大師堂の蟇股には、弘法大師が中国大陸から投げると、日本まで飛び、高野山の松に引っ掛かったという飛行三鈷杵(ひぎょうさんこしょ)の彫刻が施されている。

 大師堂の中に入ると、正面に不動明王金剛夜叉明王のステンドグラスをはめ込んだ障子があった。

大師堂の障子

不動明王(右)と金剛夜叉明王(左)のステンドグラス

障子の上の天女の彫刻

 仏様のステンドグラスは初めて目にした。考えてみれば、仏様をどう表現しようが構わないのである。

 大師堂に入って右奥に不動明王立像が祀られている。護摩行の設備はない。

不動明王

 不動明王像の右には胎蔵曼荼羅が、左には金剛界曼荼羅が掛けられている。

 不動明王降三世明王軍荼利明王大威徳明王金剛夜叉明王五大明王というが、この五大明王は、それぞれが大日如来、阿閦如来宝生如来阿弥陀如来不空成就如来五智如来が変化した姿である。

 衆生を叱咤激励して煩悩から生じる無明の闇から目覚めさせるため、憤怒の形相をしている。

 信仰心から離れて観ても、明王像は格好いい。

 大師堂の隣には客殿がある。江戸時代後期の建物だろうか。

客殿

向拝の彫刻

 客殿の先には更に石段がある。

客殿の先の石段

 この石段を登り切ると、舞台と言う展望のための建物がある。

舞台

 舞台からは、先山の南側の眺望を楽しむことが出来る。

舞台からの眺望

 しかし春の霞に遮られて、下界の姿はあまりよく見えなかった。

 舞台の先には更に石段があり、上に朱色の山門が見える。

石段と山門

 山門の左右には、阿形吽形の仁王像が立つ。

阿形像

 山門を過ぎれば、千光寺の本堂や三重塔がある先山山頂に至る。

 山上の仏教伽藍というものは、何とも心落ち着く場所である。

 

生田神社 後編

 生田神社境内の北東には、生田稲荷大明神がある。

 奉納された赤鳥居が、社殿までずらりと並んでいる。

生田稲荷大明神

狛狐

 お稲荷さんは、日本全国に隈なく祀られている神様だが、どうも他の神様とは棲んでいる世界が違うような気がする。

生田稲荷大明神の社殿

蟇股の狐の彫刻

 お稲荷さんと言えば狐だが、狐はお稲荷さんそのものではなく、お稲荷さんの眷属である。

 お稲荷さんの神名である宇迦之御魂(うかのみたま)神の別名を、御饌津(みけつ)神と言う。狐はかつて「けつね」とも言われていたため、いつしか御饌津神の使いが、音の通ずる狐になったとされている。

 また、仏教系の稲荷である豊川稲荷は、荼枳尼天(だきにてん)という天部の神様を祀っている。

社頭の狐の提灯

 荼枳尼天は、人の死肉を喰らうヒンズー教の神様だが、密教パンテオンの中に取り入れられた。

 古代インドでは、コヨーテが墓場をうろつき、人の死肉を喰らうことが多かったため、荼枳尼天はコヨーテに乗る姿で表現された。

 日本に渡って来た荼枳尼天は、狐に似たコヨーテに乗っていたことから、稲荷神と習合され、コヨーテが白狐と見做されるようになった。

 生田稲荷大明神の西側には、史跡生田の森が広がる。

生田の森の入口

 生田の森は、かつてはこの辺り一帯を覆う森であった。

 一の谷の合戦や湊川の合戦の主戦場となった場所である。古くは「枕草子」に「森は生田」と書かれるほどの名所であったようだ。

生田の森

生田の森の神木

 生田の森には、数多くの楠の巨木が生えている。入口から入って直ぐ右手には、神功皇后を祀る生田森坐(いくたのもりにいます)社がある。

生田森坐社

 春日造の鮮やかな朱色の社殿だ。静かな森の中に、今も神功皇后はおわしますのだ。

 生田の森には、何故だが「かまぼこの発祥地」の石碑が建っている。

かまぼこの発祥地の石碑

 神功皇后三韓征伐で生田の森に立ち寄った際、魚のすり身を鉾の先に刺して、火で焙って食べたのが、本邦の蒲鉾の発祥だと言う説話から、この地が蒲鉾の発祥地だとみなされているらしい。意外なことである。

 また、生田の森には、折鳥居とその礎石が置かれている。

折鳥居

 安政元年(1854年)に発生した安政の大地震で倒壊するまで、この石鳥居は、今の生田ロードに建つ赤鳥居の場所に建っていた。

 倒壊後もこの鳥居は原位置に置かれて生田の折鳥居として信仰されたが、昭和25年3月に現在の赤鳥居が起工されるに伴い、生田の森に移された。

 生田の森は、謡曲「生田敦盛」の舞台でもある。

 法然上人が賀茂明神に参詣の折、男の捨て子を拾って養育した。

 男子が10歳余りになった際、たまたま法然上人の説法を聴きに来ていた女性が、男子の母親であることを名乗り出る。男子は、母親から自分の父親が平敦盛であることを聞く。

生田敦盛の碑

 死んだ父親を恋い慕う男子は、賀茂明神に17日間参詣して、父親に会いたいと願い続ける。満願の日、「父に会わんとせば、生田の森に下れ」との託宣が下りる。

 男子は生田の森で、亡き父親の敦盛の亡霊に会い、父の生前の栄華と、死後の地獄の責め苦を知る。

 中世には、生田の森は、死者の霊魂が立ち寄る場所と認識されていたのだろうか。

 生田の森は、今は市街地の中の僅かな区画の中にしかない。少し窮屈そうである。

 諸行無常と言う通り、この世界に永遠に続くものは存在しない。神戸の市街地も、いずれは無くなるものである。

 その時は、生田の森が広がり、再びこの辺り一帯を覆うようになるだろう。

 遥か遠い将来、生田の森が再び繁茂し、この辺りが無人になっても、稚日女尊は変わらずにこの場所におられることだろう。そして、無人の中で自足して、自然の移り行きを楽しんでおられることだろう。

生田神社 中編

 生田神社の社殿は、昭和20年の神戸大空襲で焼失した。今ある建物は戦後に建てられたものである。

 拝殿は、平成7年の阪神淡路大震災で全壊した。

 私は、平成8年6月の神戸新聞の一面に、生田神社拝殿復興の記事が載っていたことを、今でも憶えている。

拝殿

拝殿前の狛犬

 生田神社拝殿の復興は、神戸市民というか、兵庫県民を勇気づけた出来事であると思われる。

 生田神社は、数々の戦災や災害から蘇ってきたので、蘇りの宮とも呼ばれている。

 拝殿は、朱色の柱や梁と真っ白な壁を持つ社殿に、緑色の銅板葺の屋根が載る、目が覚めるように鮮やかな建物だ。

 拝殿前で二礼二拍手一礼をする。正面を見ると、幣殿の向こうの本殿が見える。本殿の左右には、小さな摂社が複数並んでいる。

拝殿の奥の幣殿と本殿、摂社

幣殿の破風と本殿の扉

 本殿には、今も稚日女尊が鎮座している。本殿にある御神体は何だろうか。恐らくは鏡であろう。

本殿

本殿裏門の意匠

 古びた社殿もいいが、こうした新しい社殿も瑞々しい神意を感じていいものだ。

 本殿の北側には、様々な摂社がある。

 天岩戸説話で有名な天手力男(あめのたぢからお)命を祀る戸隠神社がある。

戸隠神社

 天手力男命は、天岩戸に隠れた天照大神を岩戸から引っ張り出した神様だ。本社は信州にある戸隠神社である。

 また、伊弉諾尊伊弉冉尊が最初に生んだ蛭子(えびす)命を祀る蛭子神社がある。

蛭子神社

蛭子神社狛犬

蛭子神社蟇股の蛙の彫刻

 蛭子神社狛犬は、角が二本ある恐竜のような狛犬だ。

 生田神社に限らず、地元を代表する神社は、災害や兵火に遭って破壊されても、地元住民の熱意により、何度も何度も復興される。

 その熱意はどこから来るのだろう。確かに神戸から生田神社が無くなれば、大事なものが失われた感覚を持つだろう。

 昔から続けられてきた地元のお祭りが大事に続けられる理由は、自分たちの祖先がそのお祭りを大事に執行してきたことにあるだろう。

 地元の神社を土地の祖先が大事にして来たことこそが、今の人々が神社を大事にする最大の理由だろう。

 神意は受け取る側の人々の気持ちに支えられている。人々の祈りは、決して無駄にはなっていない。

生田神社 前編

 三宮神社から北上し、神戸市中央区下山手通1丁目の生田神社に向かった。

 生田神社は、正月には兵庫県で最多の初詣客を集める、兵庫県を代表する神社の一つである。

 途中、繁華街の生田ロードを歩くが、生田ロードの南端に生田神社の赤鳥居がある。

赤鳥居

 ここからが既に生田神社の参道である。

 神功皇后は、三韓征伐の帰路、神戸沖で軍船が進まなくなったので、神意を占った。すると稚日女(わかひるめ)尊が現れ、この地にわれを祀るよう託宣があった。そのため、海上五十狭茅(うながみのいさち)に稚日女尊を祀らせたのが、生田神社の始まりとされている。

生田神社鳥居

 稚日女尊は、若々しい日の女神という意味で、天照大神の御幼名とも言われている。

 生田神社の社地は、古くは今の新神戸駅北側の砂子山にあったとされているが、布引の渓流が氾濫したので、この地に遷されたという。

 神戸の地名は、この辺りが生田神社の神戸(かんべ)であったことから来ている。言うなれば、生田神社は神戸発祥の元となった神社である。戦前の社格は高く、官幣中社である。

 生田神社正面の鳥居を潜ると、左側に大海神社、右側に松尾神社と、二つの摂社が祀られている。

大海神社

 大海神社は、神戸の地主神である猿田彦大神を祀っている。古くから祀られている神様で、生田神社がここに遷る前から祀られているようだ。

 猿田彦大神は、航海安全の神様であり、文禄元年(1593年)には、朝鮮出兵のため名護屋城に向かう秀吉が船内に祀ったとされている。

 昔から神戸沖を行く船は、神戸沖を通る際は、帆を巻き上げて大海神社に敬意を表したという。

 松尾神社は、酒の神様である大山咋(おおやまくい)神を祀る。

松尾神社

 神功皇后三韓征伐後、三韓の使者が日本に来るようになった。

 日本側は、今の神戸市灘区にあった敏馬(みぬめ)浦で三韓からの使者をもてなしたが、その際生田神社で醸造した酒を振舞ったという。これが、今の灘五郷酒造の発祥であると言われている。

 その縁から、ここに酒の神様である松尾神社が祀られている。松尾神社の前には、灘五郷酒造の発祥地の碑が建っている。

灘五郷酒造の発祥地の碑

 さて、大海神社松尾神社の参拝を終えて進むと、巨大な赤鳥居があり、その先に立派な楼門が見えてくる。

赤鳥居と楼門

 ところで、生田神社周辺には、古来から生田の森と呼ばれる森が広がっていた。清少納言枕草子」にも、「森は生田」という記述がある。

 生田の森は、寿永三年(1184年)二月七日に始まった一の谷の合戦で、源平が衝突した激戦地である。

 この時、源氏方の武将梶原景時の長子梶原景季は、境内に咲き誇る梅の一枝を折って箙(えびら)に差し、獅子奮迅の働きをしたとされている。

 楼門の左手には、その箙の梅と言われる梅が咲いている。

箙の梅

 勿論今植えてある梅が、寿永の頃に咲いていた箙の梅そのものではないだろうが、剛の者であると同時に、数寄者でもあった景季を偲ぶよすがにはなろう。

 また楼門の右手には、梶原の井と呼ばれる井戸がある。

梶原の井

 伝説では、梶原景季がここで水を汲んで、生田の神に武運長久を祈ったという。

 また、景季の箙に梅をさした姿が、この井戸の水に映ったので、鏡の井戸とも言われている。

 生田神社の顔と言っていい楼門は、鮮やかな朱色に彩色されているが、戦後に再建された新しい門である。

楼門

 生田神社周辺や生田の森は、源平合戦以後も、南北朝時代湊川の合戦、戦国時代の花隈城を巡る織田軍と荒木村重軍の戦い、神戸大空襲などの戦火に襲われた。

 近くは阪神淡路大震災で拝殿、本殿が倒壊した。

 そんな戦火や災害から何度も復活してきた生田神社は、まさに神戸を象徴する神社である。

 もし神戸という街に心があるとしたら、それは生田神社にあるような気がする。

三宮神社

 神戸らんぷミュージアムを出て、神戸市中央区三宮町2丁目にある三宮神社まで歩いた。

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三宮神社

 神戸には、厄除八社と呼ばれる八つの神社があり、それぞれ一宮から八宮の名で呼ばれている。

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神戸の厄除八社

 一宮神社から八宮神社までの祭神の内、大己貴尊を除く七柱の神様は、天照大御神須佐之男命との間の誓約の際に生まれた神様である。

 三宮神社の祭神は、湍津姫(たぎつひめ)命である。田心姫命湍津姫命市杵島姫命は、須佐之男命が佩いていた剣を天照大神が噛み砕いて吹いた破片から出来た神様とされている。須佐之男命の物実(ものざね)から生まれたので、系譜上は須佐之男命の子とされる。

 この三女神は、宗像三女神と呼ばれ、筑前宗像大社に祀られている。

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拝殿

 三宮の地名は、この三宮神社から来ている。

 三宮は、今や神戸最大の繁華街で、三宮神社の周辺には商業施設が立ち並び、人通りも多いが、幕末から明治維新にかけては、三宮神社周辺は田園地帯で、社の周辺には鬱蒼とした鎮守の森があった。

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本殿

 三宮神社南側の道路は、旧西国街道である。慶応四年(1868年)一月十一日に、この三宮神社前で発生したのが、今まで当ブログで何度も紹介してきた神戸事件である。

 鳥羽伏見の戦いに際し、新政府は岡山藩備前藩)に西宮の警備を命じた。

 西国街道を東に進んでいた岡山藩兵の列が三宮神社前に差し掛かった時、列をフランス水兵2名が横切ろうとした。

 水兵を制止しようとして槍を使った岡山藩士に対し、水兵が発砲し、相互の銃撃戦になった。

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史蹟神戸事件発生地の碑

 居留地に滞在していたイギリス領事パークスは、神戸港沖に停泊していた米英仏艦から陸戦隊を上陸させて、神戸を占拠した。

 そして新政府に対して謝罪と関係者の処罰を迫った。

 まだ日本全体を掌握しておらず、立場の弱かった新政府は、外国側の要求を飲まざるを得ず、岡山藩第三砲兵隊長瀧善三郎に自決を命じた。

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神戸事件当時岡山藩が使用したものと同型の大砲

 瀧善三郎は、兵庫の永福寺(現存しない)で、6ヵ国の代表が立ち会う前で切腹した。

 私は今までの史跡巡りで、瀧善三郎が自決した永福寺から移された能福寺の瀧善三郎供養塔、岡山市にある瀧善三郎の墓、瀧善三郎の地元の七曲神社にある慰霊碑を巡ってきたが、今回事件発生地を訪れることが出来た。

 日本の国力が弱いころに、外国の無体な要求の犠牲になって、国を外交上の危機から救った瀧善三郎を、後世の日本人は忘れずに顕彰しているのである。

 さて、神戸事件発生地の碑の脇に植えられた梅が美しく咲いていた。

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三宮神社境内の紅梅

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三宮神社境内の白梅

 紅梅と白梅の両方が咲いている。人の世の移ろいにかかわらず毎年咲くのは花である。

 三宮神社の境内には、河原霊社という小さな祠がある。

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河原霊社

 寿永三年(1184年)二月七日に始まった一の谷の合戦で、敵陣に一番乗りをした功名手柄を立て、討ち死にした源氏方の勇士河原太郎高直、河原次郎盛直の兄弟を祀る祠である。

 江戸時代までは、河原兄弟を祀る塚と馬塚が、この辺りにあったそうだが、神戸港開港後の開発で、いつしか塚は失われた。

 大正11年4月、三宮三丁目の有志が、源平合戦の遺跡を世に残し、河原兄弟を祀るため、河原霊社を建てた。

 だが、その後も三宮の開発が進み、河原霊社は移転を余儀なくされ、昭和46年に三宮神社境内に遷った。

 日本の神社仏閣の建物は、古くなったり災害兵火に遭うと建て直されるが、祀られる場所が動くことは稀である。

 今、三宮に建つ商業施設の入った建物は、200年後には全て建て替えられているだろうが、三宮神社は、恐らく今と同じ場所に変わらず祀られていることだろう。

 日本の神社仏閣は、その土地の歴史を後世に伝えてくれる大切な場所である。

神戸らんぷミュージアム 後編

 石油ランプと同じく、明治になって日本に上陸したのがガス灯である。

 明治5年(1872年)、フランス人技師ブレグランの指導の下、横浜で日本初のガス灯が点灯された。

 明治7年(1874年)には、東京新橋や神戸居留地にガス灯が設置された。

 ガス灯は、当初は街路灯として利用されたが、次第に屋内灯としても使われるようになった。

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屋内用ガス灯

 ガス灯の光は青白く、物を美しく見せるので、これに愛着を持つ人も多かったが、料金面で不利であったことと、火災の危険性があったことで、次第に電灯が優位になり、昭和に入るとほとんど姿を消した。

 石油街灯とガス街灯は、夕方になると点灯夫が火を点けて回ったが、ガス街灯の方は、朝になると消す必要があった。

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点消方の法被

 明治大正期には、朝になると、上の写真のような法被を着たガス会社の点消方が、ガス街灯の灯を消して回った。それが毎朝の町の光景だっただろう。

 ガス灯が日本に普及しだしたころ、国産されるようになったのがマッチである。

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様々なマッチの箱

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マッチ棒で作られた客船の模型

 マッチは、軸の先端に着いた発火性の頭薬とマッチ箱の側面に塗られた赤燐などの発火薬を摩擦させて発火させる道具である。

 古来の火打ち石などと比べ、発火しやすく、携帯に便利なので、19世紀以降普及したが、現在は簡易ライターが普及したため、需要は減った。

 照明の世界で最大の革命は、電灯の登場であろう。電灯は、それまでの灯火に比べると格段に明るく、安定した光を得られ、保守管理の手間もいらず、火災の危険性もなかった。

 日本で初めて電灯が点火されたのは、明治11年1878年)である。この時は、アーク灯が点灯された。

 アーク灯は、炭素の電極2つに電圧をかけた時に発生する放電の光を利用した照明である。

 明治15年(1882年)には、アーク灯の街路灯が日本に現れた。

 エジソン白熱電球を発明したのが明治12年(1879年)である。

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エジソンが発明した白熱電灯

 エジソンは、木綿糸のフィラメントに電気を通して発光させ、白熱電球を作ることに成功したが、商品化するためには、フィラメントにもっと強靭で幾何学的に平行に近い繊維を持った物が必要だった。

 エジソンは、6,000種類の繊維を用いて実験したが、1880年に、たまたまテーブルの上にあった団扇の外縁の竹を使ってみたところ、竹の繊維が非常に強靭であることが分り、これをフィラメントに使うことに決めた。

 そして、エジソンはフィラメントに使う良質な竹を求めて、日本と中国にウィリアム・モーアを派遣した。

 エジソンがモーアから送られた様々な竹を試したところ、京都の石清水八幡宮に生える真竹が最もフィラメントに適していることを発見した。

 以後10数年、京都八幡の真竹は米国製白熱電球のフィラメントとして使われた。

 日本で白熱電灯が初めて使われたのは、明治17年1884年)の上野駅での点灯である。

 森鷗外の作品には、様々な照明器具が出てきくる。鷗外作品を読むことで、明治期の日本の照明の移り変わりを味わうことが出来る。

 明治23年(1890年)1月発表の「舞姫」冒頭には、こうある。

石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。

 熾熱(しねつ)燈は、白熱電灯のことである。

 この作品中の時間は、鷗外がヨーロッパから帰朝した明治21年1888年)のこととされている。主人公が欧州から船で日本に帰る途中、ベトナムサイゴン港に寄港した夜、船に1人残って欧州での出来事を回想し始める場面の描写である。

 「舞姫」の文章は、今となっては古典的な文章として受け止められているが、発表当時の日本では、洋行帰りの客船の中に設置された当時最新の照明器具である熾熱燈を冒頭に登場させた、とんでもなく新奇な小説と受け止められたことだろう。

 国産の白熱電球が日本で初めて生産されたのは、その「舞姫」が発表された明治23年(1890年)のことである。

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国産の白熱電灯

 日本初の白熱電球は、藤岡市助が起こした白熱舎が開発した。

 白熱舎は明治32年(1899年)、東京電気会社となり、国産電球の生産力は急速に向上した。

 日本の屋内電灯は、明治大正期には、灯台や行灯を模倣して、豪華な装飾を施したものが流行したが、昭和期に入ると実用的で簡素な意匠のものが好んで使われるようになった。

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ガラスや陶器のセードを用いた電灯

 ヨーロッパでは、19世紀末から曲線的な意匠のアールヌーボー様式が流行し始め、エミール・ガレドーム兄弟の工房で、照明器具用のガラス工芸品の名作が生み出された。

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アールヌーボー様式の卓上スタンド

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 その後20世紀に入って蛍光灯が普及するようになり、21世紀にはLED灯が一般に普及した。

 照明の世界では、電灯の優位はこれからも揺るがないだろう。

 私も自宅を建てた時、照明には凝ろうと思って、様々な意匠の照明器具を買った。照明は人の心をも明るくする。

 人類が火を使うことを覚えてからというもの、光を自在に操作することは、文明を維持するために人間に備わった本能に近い気持ちである。

 もし大都市の停電が長く続いた時、住民が起こすであろう行動を思い浮かべてほしい。人はどうしても明かりを自在に使いたい生き物なのだ。