柳原蛭子神社 福海寺

 能福寺から北西に向かって歩き、阪神高速道の高架を潜り、その先にある神戸市兵庫区西柳原町にある柳原蛭子神社を訪れた。

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柳原蛭子神社

 柳原蛭子神社は、地元では「柳原のえべっさん」と呼ばれている。えびす神は、七福神の一柱で、釣竿を持ち鯛を抱えた姿で有名である。

 七福神の神様は、ほとんどがインドや中国発祥の神様だが、えびす様は日本独自の神様で、記紀神話にも出てこない神である。

 いつしか記紀神話に出てくる蛭子(ひるこ)や事代主神と同一視されるようになった。

 えびす様は、漁業や商売繁盛の神として祀られている。現世利益を体現したような神様である。えべっさんにお参りする人は、堂々と「儲かりますように」と祈る。そこには金儲けに対する後ろめたさは微塵もない。

 柳原蛭子神社の創建の由来ははっきり分からないが、元禄時代にはここに鎮座していたらしい。昔、蛭子神を祀る西宮神社の神輿が海上を兵庫津まで渡御する儀式があったそうである。そのためか、この地にも蛭子神が勧請されたのだろう。

 私が参拝した1月11日は、丁度十日えびす大祭の最終日だった。コロナ特措法に基づく緊急事態宣言発令の直前で、さすがに例年より人出は少なかったが、それでも参拝者の熱気で境内は暖かかった。

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楽殿

 神楽殿には、鯛や鰤が奉納されていた。えびす様も見事な海の幸にさぞお喜びだろう。

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楽殿に奉納された魚

 十日えびす大祭は、3日に渡って行われる。1月9日は宵えびす、1月10日は本えびす、1月11日は残り福と呼ばれる。

 9日の宵えびすでは、淡路人形浄瑠璃の福神楽戎舞が奉納される。えびす様が酒を飲んで上機嫌になり、船に乗って沖に出て、鯛を釣ってめでたしめでたし、という舞だ。参拝客は家内安全商売繁盛を祈念して、えびす様から福をもらう。

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拝殿

 例年より少ないとは思うが、拝殿前には参拝客が行列を作っていた。商売人などは、特に気合を入れて参拝することだろう。

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本殿

 柳原蛭子神社の社殿も、神戸大空襲で焼失した。戦後社殿は復興されたが、老朽化したため、平成22年に新社殿に建て替えられた。えべっさんの社殿は、新しければ新しいほどいいような気がする。

 柳原蛭子神社の隣には、臨済宗の寺院、福海寺がある。

 柳原蛭子神社福海寺の間の道が、旧西国街道で、昔はここに兵庫の町の惣門である兵庫西惣門があった。

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兵庫西惣門跡

 上の写真の左側の道が旧西国街道で、ここが兵庫の町の入口だった。ここに江戸時代まで門が建っていたわけだ。

 柳原蛭子神社の敷地北側に、西国街道兵庫西惣門跡の石碑と、惣門の形を模した看板が建っている。

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兵庫西惣門跡

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 兵庫の町の東側の出入り口には、湊口惣門が建っていた。ここから南の街並みは、碁盤の目のように整然としている。

 柳原蛭子神社の東隣にある福海寺は、大黒天を祀る寺で、十日えびす大祭と同じ日に大黒祭を執り行う。

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福海寺

 大黒天は、ヒンズー教シヴァ神のことである。インドでヒンズー教に対抗する形で登場した密教が、シヴァ神密教の中に取り込んで仏法の守護神にした。シヴァ神は、マハーカーラと呼ばれた。マハーは「大」という意味で、カーラは「暗黒」という意味である。密教経典が漢語訳された時に、大黒天という呼び名が誕生した。

 元々の大黒天は、青黒い体で憤怒相をした怖い姿の神様だった。

 大黒天は密教と共に日本に伝来したが、いつしか出雲大社の祭神・大国主神と音が通じるので習合された。

 元々シヴァ神は破壊と豊穣の神だが、日本では国造りの神様・大国主神と習合されて豊穣の面だけが強調されるようになり、ついには米俵の上に乗り、打ち出の小槌を持って福袋を担いだ福々しい姿で表されるようになった。

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福海寺本堂

 福海寺本堂前にも、ちゃんと米俵が奉納されている。

 本堂に祀られる大黒天は、福々しい姿ではなく、黒い体に憤怒の面持ちをした姿であった。本来の大黒天の姿だったので、安心した。しかしよく見ると、米俵に乗って、金色の打ち出の小槌を持っている。

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大黒天像

 米俵に乗っているところからして、大黒天は日本では農業の神になったようだ。えべっさんが漁業の神なら、大黒さんは農業の神である。魚と米という、日本の食を支える二大産物の豊饒を齎す神様が、柳原には並んで祀られているということになる。

 ところで、福海寺の創建は、足利尊氏に関連している。

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太平記合戦図

 建武三年(1336年)、兵庫の地で南朝方の新田義貞軍に敗れて追われた足利尊氏は、福海寺の前身である針ヶ崎観音堂に避難して難を逃れた。

 その後尊氏は、九州に落ち延びて再起し、湊川の合戦で南朝方を破って室町幕府を成立させる。康永三年(1344年)、尊氏は、自分を守ってくれた針ヶ崎観音堂の地に福海寺を建立する。そして足利氏が昔から信仰する大黒天を祀ったという。

 また福海寺境内には、平清盛公遺愛の時雨の松の石碑がある。

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平清盛公遺愛時雨之松碑

 昔、福海寺から少し東に行った三川口町の辺りに、平清盛公が愛した時雨の松があった。時雨の松は、青葉から玉露を垂らし、霊験あらたかだったという。その松も神戸大空襲で燃えてしまい、明治35年福海寺住職によって時雨の松の傍に建てられた石碑だけが残った。

 この石碑は、今は福海寺境内に移され、ひっそりと境内に佇んでいる。

 福海寺の東隣には、臨済宗の寺院、福厳寺がある。

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福厳寺

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 福厳寺は、14世紀初めに仏燈国師が開いたとされ、元弘三年(1333年)に後醍醐天皇が配流先の隠岐を脱出し、京に向かう途中、赤松円心楠木正成と合流した場所とされている。

 後に北朝方と南朝方に分かれて争った2人の武将が、この時は鎌倉幕府討滅のために力を合わせていたわけだ。

 今日はえびす様と大黒様という、招福の神様を紹介した。人間が富や安定した生活を求めるのは、自然なことで決して悪いことではない。こうした人間の自然な欲と直結した神様は、これからも長い間信仰を集めるものと思われる。

宝積山能福寺 後編

 神戸の市街地にある寺院の伽藍で、戦前から残る木造建築は稀である。昭和20年の神戸大空襲により、木造の寺社建築はほとんど焼失してしまった。

 私が今まで訪れた神戸市街地の寺院の伽藍は、戦後に鉄筋コンクリートで再建されたものばかりである。

 これは神戸だけでなく、米軍の空襲を受けた日本の都市は全てそうだろう。

 もし京都が空襲を受けていたり、当初のアメリカの計画通り核兵器が投下されていたら、今の京都の文化財はなかっただろう。

 能福寺の本堂も、戦争で焼けてしまったが、戦後になって京都にある歴代皇族墓所の月輪御陵の拝殿が能福寺に下賜され、本堂として移築された。

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本堂

 能福寺本堂は、神戸市街の主要寺院では珍しい木造の本堂である。

 月輪御陵は、京都東山の泉涌寺の裏にある歴代天皇の御陵であるが、その拝殿として、月輪影殿が建っていた。

 月輪影殿は、九条公爵家が所有していたが、昭和28年に能福寺に特別に下賜された。

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月輪影殿(能福寺本堂)

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 確かに月輪御陵の唐門と能福寺本堂は雰囲気が似ている。扁額にも九条家の紋が入っている。

 なぜ能福寺がこのような特別扱いを受けたのか。それは、この寺が、京都青蓮院門跡の院家であったからだろう。

 青蓮院は京にある天台宗の寺院で、天台宗三門跡の一つである。門跡とは、代々皇族や摂家が出家して門主を務める寺院のことで、門主のことも門跡と呼ぶ。

 青蓮院は、中でも親王が門跡に就任する宮門跡の一つで、格式が高かった。

 門跡には、親王が幼年で就任することが多い。幼年の門跡に礼儀作法や学問、文芸を教授する役割を持ったのが、院家と呼ばれる師範役である。院家は朝廷公認の役職であった。

 能福寺は、明治時代になって院家制度が廃止されるまで、青蓮院門跡の院家職を務めた寺院であった。

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月輪影殿(能福寺本堂)

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 院家は、幕府とも公然と対応出来る立場で、門跡が空位の時は、門跡公式代理を務めた。

 能福寺は、江戸時代初期から二百数十年に渡って院家職を務めた寺院であり、京より西では唯一の院家職寺院であるらしい。

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本堂の屋根

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本堂の側面

 この本堂は、月輪御陵の拝殿として明治16年(1883年)に建造された。どことなく華麗な王朝文化の香りを伝える建物である。

 平成7年1月の阪神淡路大震災で大破したが、檀信徒が総力を結集して平成9年12月に修復工事が完了し、旧姿に復した。

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月輪拝殿説明板

 この本堂内には、昭和28年に播州(神戸市西区)の太山寺から請来された阿弥陀三尊像が祀られている。

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御本尊の説明板

 太山寺は、私が播磨の史跡巡りで最後に訪れた天台宗名刹だが、天台宗は旧院家である能福寺を戦災から復興させるため、昭和28年に本堂と本尊を揃えたのだろう。

 また、昨日紹介した兵庫大仏の台座の中には、永代祠堂があるが、その中心に国指定重要文化財の木造十一面観音立像が安置されている。

 この像は、ヒノキの一木造で、宝暦年間(1751~1764年)に近江国甲賀郡善水寺から和田神社に移されたもので、明治の神仏分離令により、能福寺が和田神社から譲り受けた。

 境内には、幕末の兵庫津の豪商、北風正造の顕彰碑がある。明治29年に建てられた石碑だ。

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北風正造の顕彰碑

 北風正造は、古代から続く兵庫の豪商北風家に婿養子に入った人物で、幕末には勤皇派を資金面で援助した。

 幕末に佐幕についた姫路藩と官軍が一触即発となった時、双方の仲介を行い、金十五万両と引き換えに、姫路城と姫路城下が戦火に曝されることを防いだ。

 明治に入ると、兵庫港の新川運河の開削発起人になり、湊川神社創建の建議を行い、現在のJR神戸駅の土地を無償提供するなどした。今の神戸の街を築いた偉人の一人である。

 北風正造顕彰碑の隣には、昨年2月9日の「播磨町 蓮花寺」の記事で紹介したジョセフ彦が書いた英文を刻んだ、ジョセフ・ヒコの英文碑がある。

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ジョセフ・ヒコの英文碑

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 ジョセフ彦は、嘉永三年(1850年)に仲間と船で漂流中に米船に救助され、アメリカに渡って英語を学び、日米修好通商条約締結時に、アメリカ側の通訳として来日した人物である。

 ジョセフ彦は、文久二年(1862年)以降は日本で過ごした。この石碑は、明治25年ころに、能福寺住職がジョセフ彦に頼んで、寺の縁起を英文で起草してもらったものを刻んだものである。

 神戸港にやってきた外国人が、能福寺の兵庫大仏を見に多数参拝するので、外国人向けの縁起を刻んだ石碑を建てたのだろう。

 伝教大師最澄の開基から、清盛の出家、平氏の滅亡と平清盛廟所の破却、院家職就任、兵庫大仏の建立と戦時の回収、空襲による伽藍焼失、戦後の復興、震災からの復興と、能福寺の歴史を駆け足で紹介したが、中軸にあるものはやはり最澄が教えた仏道への信仰だろう。

 文化にまで高まった信仰は、歴史の荒波を乗り越えて、後世に受け継がれていくのだろう。

宝積山能福寺 前編

 札場の辻跡から西に約150メートル歩いた先に、天台宗の寺院、宝積山能福寺がある。

 地名で言うと、神戸市兵庫区逆瀬川町となる。

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能福寺

 能福寺は、伝教大師最澄の開基とされている。延暦二十四年(805年)、最澄が唐からの帰路に大輪田泊に上陸した。住民は最澄を歓迎し、堂宇を建立して教化を請うた。最澄は自作の薬師如来像を堂に据えて寺院を開き、能福護国密寺と称した。

 平清盛は、仁安三年(1168年)、この能福寺で剃髪出家したという。その時の清盛の師は、円実法眼という僧であった。

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能福寺と兵庫大仏

 治承四年(1180年)、福原に移った平氏一門は、能福寺に帰依した。

 円実法眼の弟子となった清盛の甥の小川忠快法印が七堂伽藍を整備し、兵庫随一の勢力を誇る寺院となった。能福寺は、その威容から、八棟寺とも呼ばれた。

 養和元年(1181年)、清盛は京で病死した。寺伝によれば、清盛の遺体は荼毘に付され、遺骨は円実法眼により八棟寺に運ばれ、境内に埋葬されたという。

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平清盛墓所 八棟寺殿 平相国廟所

 しかし平氏滅亡後、八棟寺(能福寺)はことごとく破壊され、清盛の墓所も破壊されて所在が分からなくなった。

 弘安九年(1286年)、執権北条貞時平氏の栄枯盛衰を哀れみ、近くに清盛の供養塔を建てた。これが、今年2月17日の記事で紹介した清盛塚である。

 昭和55年、清盛公800回大遠忌を記念して、能福寺平清盛墓所平相国廟が再建された。

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平相国廟

 廟所中央には石造十三重塔が建つが、これが清盛の供養塔だ。

 その右側には、清盛の出家の師である円実法眼の供養塔である宝篋印塔が建つ。

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円実法眼供養塔

 この宝篋印塔は、鎌倉時代の作である。

 石造十三重塔の左隣にある九重塔は、小川忠快法印の供養塔とされている。

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九重塔

 この九重塔も鎌倉時代の作とされている。

 境内には、慶応四年(1868年)1月に発生した神戸事件の責任を取って自決した滝善三郎の供養塔が建っている。

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滝善三郎供養塔

 神戸事件が発生したのは、大政奉還後、明治新政府が樹立されたが、まだ戊辰戦争中だった慶応四年1月11日である。

 西宮の警備のため西国街道を東進していた備前藩兵の行列が、神戸三宮神社前に差し掛かったころ、行列をフランス水兵が横切ろうとした。

 これを無礼と見なした備前藩士滝善三郎が、フランス水兵に槍で突きかかり軽傷を負わせた。

 これが原因で、備前藩兵とフランス水兵との間で銃撃戦が発生した。備前藩は外国人居留地の予定地を見に来ていた各国公使をも水平射撃した。

 現場に居合わせたイギリス公使パークスは激怒した。居留地保護の名目で、神戸港沖に停泊していた米英仏艦隊から外国兵が上陸して備前藩兵を追い払い、神戸の中心地を占拠した。

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神戸事件の説明板

 外国は明治新政府に関係者の処罰と滝善三郎の処刑を求めた。

 当時の明治政府は、まだ攘夷を唱えていたが、流石に外国の圧力の前に非現実的な攘夷方針を撤回し、関係者の処罰の求めに応じることとなった。

 滝善三郎は事件の責任を負い、兵庫津の永福寺で、外国人代表立会の下、割腹自決した。

 神戸事件は、明治新政府が成立してから初めて経験した外交事件であり、朝廷が攘夷から外国和親に方向転換したきっかけとなった事件である。

 神戸市民は、責任を負って自決し、事件を解決に導いた滝善三郎を称えて永福寺に供養碑を建てた。昭和8年には、木製の供養碑に替えて現在の石造供養塔が建てられた。

 永福寺は昭和20年の神戸大空襲で焼失したが、残っていた滝善三郎供養塔が昭和44年に能福寺境内に移転された。

 滝善三郎は、江戸時代の武士の定めに従って行動し、自決した人だが、その昔ながらの行動が、新日本を開くきっかけになったのは興味深い。

 能福寺平氏滅亡後、暦応四年(1341年)に震災により全焼したが、慶長四年(1599年)に長盛法印により再建された。

 明治初年の神仏分離令により、仏教界は大きな打撃を受けたが、兵庫の豪商南条荘兵衛の発願により、明治24年(1891年)に能福寺に巨大な盧遮那大仏が建立された。兵庫大仏と呼ばれ、奈良、鎌倉の大仏と並んで日本三大仏と呼ばれた。

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胎蔵界大日如来像(兵庫大仏)

 兵庫一帯は、当時神戸第一の繁華街であり、兵庫大仏には参詣客も多く訪れ、香の絶える間もなかった。

 しかし昭和19年5月、大東亜戦争で資源不足に悩まされた日本政府が出した金属回収令により、巨大な兵庫大仏はハンマーで叩き壊されて回収されてしまった。

 地元市民は戦後も兵庫大仏の復活を望み続け、市内の有力企業の協賛を得て、遂に平成3年5月に2代目兵庫大仏である胎蔵界大日如来像が完成した。

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2代目兵庫大仏

 今の兵庫大仏は、仏師の西村公朝が監修したとされている。

 建てられて30年になるが、優しい表情をしたなかなか美しい仏像だ。

 最澄が日本帰国後初めて開いた寺院の法灯を守るかのように、優美な大仏が優しい眼差しを投げかけている。

来迎寺 札場の辻跡 岡方惣会所跡

 大輪田泊の石椋のすぐ北東に、浄土宗の寺院、来迎寺(築島寺)がある。

 地名で言うと、神戸市兵庫区島上町2丁目に建っている。島上町は、承安年間(1171~1175年)に、平清盛が造った人工島の経ヶ島の上に出来た町である。

 来迎寺は、元々はここから北西の三川口町の辺りにあったとされるが、いつしかこの地に移転したそうだ。

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来迎寺

 清盛は、北側を山に囲まれた天然の要害で、良港の大輪田泊のある現在の神戸市兵庫区周辺を気に入り、ここに皇居を移そうとしたが、結局は計画のみで終わった。

 清盛は、大輪田泊を拡張し、日宋貿易の拠点港にするため、人工島経ヶ島の築造工事に取り掛かった。

 経ヶ島の築造工事は、暴風雨によってなかなか進まなかった。陰陽博士に占わせると、「これは竜神の祟りである。30人の人柱と一切経を書いた石を沈めると工事は成就するだろう」と言われた。

 そこで清盛は生田の森に関所を設け、人柱にする人を捕え始めた。捕まった人やその家族は嘆き悲しんだ。

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来迎寺本堂

 清盛の小姓だった17歳の松王丸は、清盛に「人柱は罪が重いです。私一人を身代わりに沈めて下さい」と懇願した。松王丸は30人の人柱の身代わりに入水し、無事経ヶ島の工事が終わった。

 経ヶ島の名の由来は、一切経を書いた石を沈めたことから来ているとされている。

 天皇は松王丸の犠牲を悲しみ、その菩提を弔うため、来迎寺を建立したという。

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松王小児入海之碑と妓王妓女塔

 来迎寺境内には、松王丸の供養塔である、松王小児入海之碑と、清盛が寵愛した白拍子である妓王、妓女姉妹の供養塔がある。

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松王小児入海之碑

 この松王小児入海之碑が、松王丸が入水した当時に建てられたものかどうかは分からない。

 当ブログ今年1月28日の記事「大和島 絵島」の記事で、絵島の上に建つ宝篋印塔が松王丸の供養塔とされていることを紹介した。それが事実なら、明石海峡を挟んで、松王丸の供養塔が二つあることになる。

 松王小児入海之碑の隣には、妓王妓女塔がある。

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妓王妓女塔

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 妓王妓女姉妹は、平清盛が寵愛した白拍子である。

 白拍子とは、平安時代末期から鎌倉時代に流行した歌舞の一種で、男装の遊女や子供が、今様や朗詠を歌いながら舞った。白拍子を舞う舞妓も、いつしか白拍子と呼ばれるようになった。

 清盛の心が別の白拍子、仏御前に傾くに及び、妓王妓女は世の無常を嘆いて出家し、嵯峨野に庵を結んだ。今の妓王寺である。

 平氏滅亡後、妓王妓女は、兵庫の八棟寺(今の能福寺)に来て、平氏一門の菩提を弔ったという。

 世の移り変わりは早く、無情なものである。

 さて、来迎寺から西に約150メートルほど歩くと、札場の辻跡がある。

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札場の辻跡

 札場とは、幕府の布達などを高札に書いて掲示する高札場のことである。

 都と大宰府を結ぶ山陽道は、元々は今の神戸市街のある場所を直線状に通っていたが、鎌倉時代に兵庫津が発展するに従い、兵庫の町に立ち寄るために道がV字になった。

 江戸時代の西国街道は、この旧山陽道を踏襲している。

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札場の辻跡

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西国街道の図

 兵庫の町の北東の出入口は、湊口惣門と呼ばれ、北西の出入口は柳原惣門と呼ばれた。

 湊口惣門から南西に伸びる西国街道は、この札場の辻跡で直角に折れて、北西に向かう。

 現在も札場の辻跡の角で道は直角に曲がっている。

 上の写真の地図を見ても、JR神戸駅前を除けば、江戸時代に西国街道が通っていた場所に、今も道が通っているのが分かる。

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「大和田」「右 京」と刻まれた標柱

 江戸時代には、幕府が新しい方針を高札に書いて、この札場に掲示するたびに、人だかりが出来たことだろう。

 札場の辻跡から北東に歩くと、本町公園がある。公園の西側に、岡方惣会所跡の碑が建っている。

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岡方惣会所跡の碑

 江戸時代には兵庫津の行政区域は、北浜、南浜、岡方に三分されていた。

 これを三方と言い、大坂町奉行所が三方を支配していた。

 三方にはそれぞれ惣会所が置かれ、名主が惣代や年寄を指揮して行政を行った。

 岡方は、兵庫津のうちで海に接していない地域で、その岡方の惣会所が置かれていたのがこの地である。

 この岡方惣会所跡の碑のある場所は、モダンな石造りの洋館の敷地内であった。

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旧岡方倶楽部

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旧岡方倶楽部

 この洋館が一体何なのか興味を覚えたが、調べてみると、どうやらこの建物は、兵庫の商人たちが地域の社交場として昭和2年に建設した岡方倶楽部の跡らしいことが分かった。

 この建物は、地元では神戸大空襲と阪神淡路大震災を生き延びた奇跡の建物と呼ばれ、平成25年からは兵庫津歴史館岡方倶楽部として神戸市が管理している。

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 最近新聞記事を読んでいると、イオンモール神戸南店の南側に、元は大坂町奉行所の勤番所だった初代兵庫県庁の建物を復元し、兵庫津ミュージアムという名称で兵庫津の歴史を紹介する施設とする計画が進んでいると書いていた。

 地元の兵庫県民も、兵庫津の歴史はほとんど知らない。かく言う私も今回史跡巡りをするまで知らなかった。

 自分の住む県の歴史を知ることは、いいことではないかと思う。

兵庫城跡 大輪田泊の岩椋

 神戸市兵庫区大輪田橋の西詰から北に向かって、新川運河のプロムナードが続いている。

 新川運河は明治時代に掘削された運河である。

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新川運河

 かつて運河の東側の中之島には、中央市場があったが、今はイオンモール神戸南店が建っている。

 プロムナードは、散歩客やジョギング客などが歩いたり走ったりしている。

 散策していると、塀の上に並んだユリカモメたちの姿が目に留まった。近寄っても逃げ出す気配がない。

 望遠機能の貧弱なRX100でも、近寄って写真に収めることが出来た。

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プロムナードで出会ったユリカモメたち

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 それにしても、ユリカモメたちは、なぜこんなに密集しているのだろう。

 新川運河の水面には、様々な水鳥が浮かんでいる。山中の野鳥を見ようと思っても、警戒されてすぐ逃げられてしまうが、水鳥は、人間が近づいても、悠然と泳いでいることが多い。水鳥を観察するのは、なかなか飽きが来ないものだ。

 さて、この新川運河は、先ほども書いたように明治時代になって開削されたものである。

 奈良時代行基菩薩が開いた大輪田泊のころから、この地は湊として栄えた。

 平清盛大輪田泊を修築し、経ヶ島を築いて日宋貿易の拠点とした。鎌倉時代以降は、大輪田泊は兵庫津と呼ばれ、江戸時代には北前船の寄港地になった。

 しかし、昔から、西から兵庫津に入港する船は、波風の強い和田岬沖を通過しなければならず、多くの船が難破した。

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兵庫港の運河開削計画

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安政六年(1859年)の兵庫津(左側が南)

 明治時代になって、東尻池村(今の神戸市長田区東尻池)のあたりから兵庫港につながる運河を開削する計画が持ち上がった。

 先ず明治9年(1876年)に兵庫港内に新川運河が出来たが、資金難からそれ以上の運河開削は出来なかった。

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明治14年1881年)の兵庫港(左側が南)

 明治32年(1899年)になって、ようやく東尻池から新川運河につながる兵庫運河が完成した。兵庫運河を開削したときに出た土砂を使って、人口の島である苅藻島が造られた。

 兵庫運河が完成したことにより、西からきた船は、和田岬を迂回せずとも、運河を通って兵庫港に入れるようになった。

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現在の地図と元禄絵図の合成図

 ところで、今は新川運河が通っている場所に、かつて兵庫城が存在していた。上の写真は、兵庫港の現在の地図と元禄絵図を合成した図だが、オレンジ色に塗られた場所が兵庫城があった場所だ。

 新川運河の西側の、旧兵庫城の跡地に、兵庫城跡の石碑が建っている。地名で言えば神戸市兵庫区切戸町になる。

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兵庫城跡の石碑

 天正八年(1580年)、信長の家臣の池田恒興、輝政父子は、信長に反旗を翻した荒木村重の支城だった花隈城を攻略した。

 信長から兵庫の地を与えられた池田恒興は、花隈城を廃城として兵庫城を築く。

 元和三年(1617年)には、兵庫津は尼崎藩領となり、兵庫城跡に藩の陣屋が置かれた。

 明和六年(1769年)には、幕府の直轄領となり、兵庫城跡は大坂町奉行所の勤番所となり、与力・同心が詰めた。

 慶応四年(1868年)1月、新政府はここに兵庫鎮台を置いたが、同年2月には兵庫裁判所となり、更に同年5月には兵庫県が設置され、この地に最初の兵庫県庁が置かれた。そして初代兵庫県令(知事)伊藤博文が着任した。

 ちなみに兵庫県庁は、同年9月に今の神戸地方裁判所のある場所に移転し、明治6年になって現在地に移転した。

 私の住む兵庫県が誕生して今年で153年になるわけだ。しかし現代人に馴染みの深い都道府県も、所詮人間が作ったものである。兵庫県もいつまでもあるわけではあるまい。

 兵庫城跡から北にしばらく歩くと、大輪田泊の岩椋(いわくら)を展示した場所がある。

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大輪田泊の岩椋

 大輪田泊は、奈良時代行基菩薩が築いた湊である。

 昭和27年に、新川運河の浚渫工事を行っていたところ、運河の底から一定間隔で打ち込まれた松杭と、巨石20数個が見つかった。

 平成15年の付近の発掘調査によって、ここから北西約250メートルの場所に港湾施設があったことが明らかになった。

 港湾施設との位置関係から、これらの巨石は、大輪田泊の防波堤か突堤の基礎を構成していた石椋と見られる。

 展示されている岩椋は、発見された巨石の一つである。重量は約4トンある。

 歴史の推移に伴って、地形や街道や町割りなどは大きく変化していくが、海岸沿いの変化はより甚だしい。

 兵庫港は、日本有数の歴史を持つ港である。海洋国家日本の原型を見る思いがする。

西月山真光寺

 薬仙寺から北に歩き、橋を渡るとすぐ西側に時宗の寺院、西月山真光寺がある。住所で言うと、神戸市兵庫区松原通1丁目である。

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真光寺

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 真光寺は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山清浄光寺の末寺に当るという。

 ここは、遊行僧一遍上人の示寂の地と言われ、一遍上人の供養塔が建っている。

 一遍上人は、延応元年(1239年)に伊予国の豪族河野通広の子として生まれた。宝治二年(1248年)に実母が亡くなり、世の無常を感じて出家した。

 浄土宗に入門した一遍は、修行と学問に明け暮れた。そして衆生と念仏を結び付けるため、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書いた念仏札を配り歩いた。

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本堂

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本尊阿弥陀如来立像を祀る厨子

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本堂の格天井絵

 一遍上人は、四天王寺を出発し、高野山を経て熊野に向かいながら念仏札を配った。

 一遍上人は、この熊野の地で一大転機を迎える。山道で一人の僧と出会った上人は、念仏札を渡そうとするが、僧から信心が起きないので受け取れないと拒まれた。

 一遍上人は、押し問答の末に、僧に無理矢理札を渡してしまった。この出来事で苦悩した一遍上人は、熊野権現にすがるため、熊野本宮の熊野証誠殿に参籠した。すると山伏姿の熊野権現が現われ、念仏勧進の真意を一遍に示したという。

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一遍上人木像

 このとき、熊野権現一遍上人に「融通念仏を勧めている聖である一遍よ、なぜ間違った念仏を勧めていると思うのか、あなたの勧めによりはじめて人びとが往生できるのではない。すべての人びとは、十劫というはるか昔に法蔵菩薩が覚りを得て阿弥陀仏に成ったときから、南無阿弥陀仏と称えることにより往生できるのである」と告げた。

 これを熊野権現神勅といい、時宗では、この時を立教開宗とする。

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一遍上人廟所

 同じ念仏を唱える浄土真宗は、阿弥陀如来の本願を信じることで人は救われると説くが、時宗では、遥か昔に阿弥陀仏が覚った時に、全ての人が南無阿弥陀仏と唱えることで往生できると決まったのだから、信仰心の有無は関係ないと説く。

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一遍上人廟所の阿弥陀如来坐像

 もはや、個々の人間の性質や信仰心は関係なく、南無阿弥陀仏と唱えれば全て問題なしという、驚くほど包容力のある教えが誕生した。

 信仰心が必要ないという宗教は、なかなかないものである。

 一遍上人は、全国を遊行し、踊りながら念仏を唱える踊り念仏を民衆に勧めた。

 そして、正応二年(1289年)に、この地に建っていた観音堂で没した。亡くなる前の上人は、「一代の聖教みなつきて、南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と釈迦の教えは全て南無阿弥陀仏に集約されると語り、「我がなきがらは野に捨てて、けだものなどに施せよ」と語った。

 しかし、時宗の宗徒は、一遍上人の亡骸を荼毘に付し、この地に手厚く葬った。

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一遍上人廟所

 一遍上人は、辞世の歌として、

旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨てられぬ ところあるべき 

 と詠んだ。

 南無阿弥陀仏と唱えてさえいれば、いつどこで死のうが万事良しとすべきということか。底抜けに楽天的な教えである。

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石造五輪塔

 一遍上人墓所と伝えられる一遍上人廟所は、兵庫県指定史跡であり、墓石とされる石造五輪塔は、兵庫県指定文化財である。

 一遍上人の墓石と言うが、南北朝時代に造られた塔であるらしい。一遍上人の元々の墓石は、もっとささやかなものだったろう。ただの石を置いただけの方が、一遍上人らしい気がする。

 一遍上人の弟子の他阿上人真教が、一遍の墓所に寺を建て、伏見天皇から寺号勅願を得て、真光寺と称した。

 平成7年の阪神淡路大震災で石造五輪塔は倒れたが、その際塔の中から骨灰が現れたという。

 真光寺は、神戸大空襲で伽藍の全てを失った。今の本堂は、戦後に鉄筋コンクリートで再建されたものである。

 かつて阿弥陀堂が建っていた場所には、無縁仏を集めた無縁如来塔が築かれている。

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無縁如来

 一遍上人が、この地に建っていた観音堂に住み着いたのは、健治二年(1276年)であるが、その約100年前の承安二年(1172年)に、平清盛がこの地を訪れ、厳島明神を勧請した。真野弁財天と呼ばれ、手厚く祀られた。

 その時清盛が祀った真野弁財天は、神戸大空襲で焼けてしまった。今は新たにインドから招来した弁財天を観音堂に祀っている。

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観音堂

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観音堂の内部

 観音堂には、弁財天の他に、観世音菩薩や毘沙門天が祀られている。

 境内には、清盛が訪れた時に、観音堂の住職が水を汲んでお茶をたてて献じたという清盛御膳水の井戸がある。

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清盛御前水の井戸

 真光寺には、国指定重要文化財の「紙本着色遊行縁起」10巻が伝わっている。一遍上人の弟子宗俊が撰述したもので、三井寺の僧侶行顕の詞書が記されている。

 当ブログ令和元年12月10日の「教信寺 古大内遺跡」の記事で、一遍上人の先達とも言うべき平安時代初期の僧侶・沙弥教信を紹介した。

 南無阿弥陀仏と唱えながら人のために働き、死んだら死体は鳥獣にくれてやるという生き方は、教信も一遍も同じである。

 どうすれば、こんなに明るく強靭な死生観に到達できるのか。私も知らず知らず色んなものを背負っているつもりになっているが、実は最初から何にも背負っていないのかも知れない。

 教信や一遍の生き方には、参考にすべきものがある。

医王山薬仙寺

 清盛塚・琵琶塚から南に歩き、運河にかかる橋を渡るとすぐ左手に時宗の寺院、医王山薬仙寺がある。

 薬仙寺は、天平十八年(746年)に行基菩薩が開いたと伝えられている。行基は、大輪田の湊を築いた人物である。交通の要衝大輪田の湊の傍にこの寺院を開いたのだろう。

 承元元年(1207年)に法然上人が讃岐に配流される際、当寺に立ち寄り、民衆を教化したという。当ブログでは、法然上人が讃岐に渡る際に立ち寄った寺院として、今まで高砂市十輪寺たつの市室津浄運寺を紹介した。

 兵庫も高砂室津も、古代から湊として栄えた地である。

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医王山薬仙寺

 ところで私が時宗の寺院を訪れるのは初めてである。

 時宗は、鎌倉時代後期に一遍上人智真が開いた念仏系の宗派である。伊予の豪族河野氏の子息だった一遍は、母の死をきっかけに世の無常に目覚めて出家し、全国を遊行した。

 善人悪人、信心の有無にかかわらず南無阿弥陀仏を唱えれば救われるという至ってシンプルな教えを説いて回った。

 一遍が広めた踊り念仏は、踊りながら念仏を唱えるというもので、聞くだけでちょっと楽しそうであり、素朴な庶民に受け入れやすかっただろう。

 薬仙寺は、昭和20年の神戸大空襲で伽藍が焼失した。今建つ本堂は鉄筋コンクリート製のものである。

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本堂

 本堂には、御本尊の薬師如来坐像と脇侍仏の長谷試(はせこころみ)十一面観世音立像が祀られている。

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本堂の厨子

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御本尊と脇侍仏

 薬師如来坐像は、平安時代の作で、国指定重要文化財となっている。

 脇侍仏の長谷試十一面観世音立像は、その名の通り、大和長谷寺の観世音菩薩立像の試作仏との伝承がある。弘安元年(1278年)の墨書銘があるという。

 確かに長谷寺の十一面観世音菩薩像と同じく、右手に錫杖を持っている。もし長谷寺の十一面観世音菩薩像の試作品なら、なぜこの寺に納められたのか由来が知りたいものだ。

 薬仙寺の境内には、様々な石碑や記念物が置かれている。

 先ずは、花山法皇の歌碑である。

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花山法皇歌碑

 花山法皇は、第65代天皇だったが、19歳で退位し、出家して、今の兵庫県三田市にある花山院に隠棲した。

 大輪田の湊を好んだ法皇は、たびたびこの地を訪れた。

 歌碑には、法皇が花山院に近い有馬富士を詠った、

有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かと聞けば 小野の松風 

 の歌が刻まれている。古碑のため、字の判別が難しい。

 その隣には、詠歌踊り念仏連名の石碑が建つ。

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詠歌踊り念仏連名碑

 右が万延元年(1860年)、左が嘉永五年(1852年)に建てられた碑である。

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嘉永五年の碑

 一遍上人は、この兵庫津で没したが、そのためか兵庫津周辺は、踊り念仏が盛んであった。

 江戸時代には、福原西国霊場巡拝も盛んになり、御詠歌と踊り念仏がミックスした詠歌踊り念仏が誕生した。詠歌踊り念仏は、兵庫の娯楽的な庶民芸能となった。

 この石碑には、幕末の詠歌踊り念仏の愛好家だった兵庫津の有力町人や夫人たちの名前が刻まれている。

 その隣には、「大施餓鬼会日本最初之道場」と刻んだ石碑がある。

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大施餓鬼会日本最初之道場の碑

 日本最初の施餓鬼会が、この薬仙寺で行われたというのだろうか。

 その隣には、萱の御所跡の碑がある。

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萱の御所跡の碑

 萱の御所は、後白河法皇平清盛に幽閉された場所で、元はここから北東約100メートルの地にあった。昭和29年の新川運河拡張工事に際し、薬仙寺に石碑が移された。

 伊豆に配流されていた源頼朝と出会った文覚上人は、萱の御所に忍び込んで後白河法皇に会い、平家追討の院宣を賜ったという。

 その隣には、福原地区空襲被災者供養塔がある。戦前の福原には、大遊郭があったが、これも神戸大空襲で焼失した。遊郭で働く娼妓達も空襲で多数焼死した。それら被災者を供養する石碑である。

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福原地区空襲被災者供養塔

 その隣には、巨大な黒御影石で作られた神戸大空襲犠牲者慰霊碑がある。

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神戸大空襲犠牲者慰霊碑

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 昭和20年3月17日の神戸大空襲では、神戸市街の大半が焼失した。造船所のあった兵庫区に対する米軍の空爆は激しく、当時の神戸最大の繁華街新開地や、遊郭街福原は焼夷弾によって発生した火災で消滅した。

 この空襲による犠牲者は、約1万人だという。

 昭和50年3月16日にこの慰霊碑が完成し、その後毎年3月17日にはこの慰霊碑の前で慰霊祭が執り行われる。

 戦争の是非はどうあれ、昔大きな戦争があり、数多くの人が亡くなったことは記憶に留めおくべきであろう。

 その隣には、後醍醐天皇御薬水薬師出現古跡湧水の井戸がある。

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後醍醐天皇御薬水薬師出現湧水

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 隠岐島に流されていた後醍醐天皇が、京に還幸の途中、兵庫津の福厳寺で病床に臥した。薬仙寺住職が、この井戸に湧いた水を天皇に献上したところ、天皇の病はたちまち癒えたという。

 その隣には、石造十三重塔がある。いつの時代のものかは分からない。

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石造十三重塔

 石造十三重塔の隣には、当月17日の記事で紹介した大輪田橋の戦災・震災復旧モニュメントがある。

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大輪田橋戦災・震災復旧モニュメントのプレート

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大輪田橋戦災・震災復旧モニュメント

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 昭和20年3月17日の神戸大空襲で家から焼け出された市民が、大輪田橋上に避難したが、火炎旋風は橋上をも襲い、橋上に避難した市民の多くが焼死した。

 また平成7年1月17日の阪神淡路大震災では、大輪田橋の親柱が倒壊した。大輪田橋の親柱は、一時薬仙寺で保管されていた。

 神戸を襲った2つの戦災、震災を記憶に留めるため、平成10年に薬仙寺にあった大輪田橋の石材を使って、モニュメントとして残すことになった。

 モニュメントには、この2つの災害の日付が刻まれている。両方17日に発生しているが、偶然だろうか。
 人が生きていく上で、災害は避けて通ることは出来ないが、今後発生する災害での犠牲が、なるべく少なくなることを祈るばかりだ。