和田岬砲台 大輪田橋 清盛塚・琵琶塚

 今までの史跡巡りで、幕末に築かれた舞子砲台と松帆砲台を紹介したが、神戸市兵庫区和田崎町1丁目の三菱重工業神戸造船所の敷地内にも、幕末に築かれた砲台の一つである和田岬砲台がある。

 和田岬砲台を管理する三菱重工業神戸造船所は、海上自衛隊が使用する護衛艦や潜水艦を建造しており、我が国の安全保障上非常に重要な場所である。

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三菱重工業神戸造船所のビル

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三菱重工業神戸造船所入口

 軍事技術の粋である潜水艦を建造している場所だけに、セキュリティーもしっかりしており、敷地内にある和田岬砲台も、気軽に見学することはできない。

 見学には基本的に事前予約が必要だが、現在はコロナウイルスの影響で見学を中止しており、和田岬砲台を見ることは叶わなかった。

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和田岬砲台の石堡塔(三菱重工業のホームページ掲載の写真)

 和田岬砲台は、文久三年(1863年)に勝海舟らによって設計・建造され、元治元年(1864年)に完成した。 

 砲台は、石堡塔とその周囲を巡る星型の土塁で出来ていたが、今は星形の土塁はなくなっているそうだ。

 石堡塔の外郭部は、瀬戸内海塩飽諸島御影石を用いて築かれており、内部は木造二階建てになっている。

 1階には弾薬庫と砲身冷却用の井戸があり、2階と屋上には大砲を設置する砲門が造られている。

 第14代将軍徳川家茂や、一橋慶喜もここを訪れたことがあるらしい。

 実際に砲が設置されることはなかったが、幕末の同様の遺構の中で、石堡塔内部の構造物が完存しているのは和田岬砲台しかなく、貴重な幕末の遺物である。

 和田崎町を後にし、神戸市兵庫区出在家町2丁目から芦原通1丁目にかけて架けられている大輪田橋に行く。

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大輪田

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 大輪田橋は、大正13年1924年)に竣工した石造の橋である。橋の三重のアーチが美しい。あと3年で、竣工してから100年になるわけだ。

 この橋は、竣工してから2度の大きな災害に遭遇している。

 一度目は、昭和20年3月17日の神戸大空襲である。

 空襲で神戸市街は一面が火の海となり、大輪田橋上に、火炎の渦を避けるため、多くの市民が避難してきたが、その多くが火に巻き込まれて亡くなった。橋周辺だけで、一晩で500名近い人が亡くなったという。

 大輪田橋は、今でも橋の一部が黒く変色している。空襲による火災の名残と思われる。

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黒く変色した欄干

 二度目の災害は、平成7年1月17日の阪神淡路大震災である。この地震で、橋は崩落しなかったが、橋の四隅に建っていた親柱が4本とも倒れてしまった。

 倒れた親柱は、災害復旧の邪魔になるので処分されそうになったが、橋に愛着を持つ地元住民の要望で、近くの薬仙寺で保存されることになった。

 平成10年に、親柱の内の1本が、震災モニュメントとして元の場所に建てられた。

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復元された親柱

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 そして復元された親柱の横には、震災の時に倒れて真っ二つに折れた親柱が横たえられることになった。

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折れた親柱

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折れた親柱の説明板

 大輪田橋の4本の親柱の内、残り3本は欠如したままである。神戸を巨大地震が襲った記憶を残すため、橋はこれからもこのままの状態で置かれることだろう。

 神戸の史跡を巡って感じるが、阪神淡路大震災ももはや歴史の中の出来事になってしまったようだ。

 平成7年当時は、今ほどインターネットも普及しておらず、携帯電話もあまり普及していなかった。携帯電話にカメラ機能も付いていなかった。カメラもフィルムが主流で、ハイビジョンもなく、リビングではVHSが使われていた。

 平成に入っていたが、生活様式としては、あの当時はまだ戦後の昭和の延長上にあったと言っていい。       

 この震災を境に、日本の建築基準も厳しくなったのだから、確かに時代を画する災害だったと言えるかもしれない。

 大輪田橋を西に向かって歩き、橋を渡りきると、道路わきに清盛塚石造十三重塔と琵琶塚の石碑が見えてくる。

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清盛塚・琵琶塚

 今清盛塚・琵琶塚がある場所は、地名で言えば神戸市兵庫区切戸町1丁目になる。

 清盛塚石造十三重塔は、大正時代までは、今の場所から南西約11メートルの場所にあった。今片側2車線の道路が通る場所である。

 大正12年の道路拡張工事に伴い、塔を移動させることになった。

 この十三重塔は、地元では古くから平清盛の墳墓としてきたが、調査したところ、地下に人骨は埋まっていないことが分かったので、移動させたそうだ。

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清盛塚

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石造十三重塔

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 平清盛の墓石とされてきた石造十三重塔の台石には、「弘安九年(1286年)二月日」の銘が彫られている。執権北条貞時が建てたものとされている。

 思えば鎌倉幕府の実権を握った執権北条氏は、平氏の血統である。平家滅亡から百年経って、少しづつ平家一門の顕彰を行ったのだろうか。

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弘安九年二月日の銘

 清盛塚石造十三重塔は、兵庫県指定文化財となっている。その横には、昭和47年に建てられた清盛の銅像がある。神戸出身の彫刻家柳原義達の作である。

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平清盛

 出家した僧形の清盛像だ。

 清盛塚が大正時代に今の場所に移転される前、清盛塚の北西には、琵琶の形をした墳墓があったという。前方後円墳があったのだろう。

 この墳墓は琵琶塚と呼ばれ、江戸時代以降、琵琶の名手だった平経正の墓と信じられるようになった。経正は、清盛の弟経盛の長男で、一の谷の合戦で戦死したという。

 明治35年(1902年)に、地元有志が琵琶塚の近くに石碑を建てた。

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琵琶塚の石碑

 琵琶塚は、大正12年の道路拡張工事で均されてしまい、今はその形はない。清盛塚石造十三重塔とこの琵琶塚の石碑は、その際に現在地に移された。

 史跡巡りをして気づいたが、農村部よりも都市部の方が戦災や災害の被害に見舞われることが多い。それだけ、打撃を受けた寺社も多い。

 しかし、何とか史跡を残して後世に伝えようという人々の願いも強く感じる。

 史跡には、昔からの人々の願いや気持ちが入っている。

長田神社

 神戸市長田区長田町3丁目にある長田神社は、神戸市を代表する神社の一つである。

 創建は古く、神功皇后摂政元年と言われている。神功皇后の率いる艦隊が、三韓征伐の帰路に長田沖を航行中、悪天候で進み難くなった。

 その時、大国主神の子の事代主(ことしろぬし)神が、神功皇后に「我を長田に祀れ」と託宣した。

 お告げを受けた神功皇后が、長田に事代主神を祀り、長田神社を創建したとされている。

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長田神社

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長田神社鳥居

 神功皇后が実在していたとすれば、「日本書紀」の紀年は別にして、応神天皇の母親ということを考慮すると、4世紀後半の人物と思われる。長田神社はその頃からこの地に祀られていたのだろうか。

 事代主神は、記紀では天津神に国譲りをした神とされており、八神殿に祀られる皇室の守り神の一柱である。

 長田神社は、「延喜式」では名神大社に列せられ、戦前の社格制度では官幣中社であった。歴史上一貫して高い社格を誇る神社である。

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神門

 中世の長田神社の歴史はあまりよく分かっていない。

 寛文元年(1661年)に社殿が再建されたが、大正13年の火災により焼失してしまった。

 今ある本殿、幣殿、拝殿、神門等を中心とする社殿は、昭和3年に再建されたものである。

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拝殿

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 私が参拝した日は、成人の日であった。新成人とその家族が多く参拝に訪れて、境内は賑やかであった。

 長田神社の社殿は、木造銅板葺きで、柱は漆下地に丹塗りされており、非常に鮮やかな色彩の社殿である。

 神戸大空襲により、神戸市内の主要な神社はほとんど焼けてしまったが、長田神社は神戸市内の主要神社の中で唯一戦災を免れた神社である。

 平成7年の阪神淡路大震災で、長田区は火災に見舞われ、甚大な被害を受けたが、長田神社社殿は倒壊を免れた。

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拝殿

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 丹塗りの柱や梁に、青や緑に彩色された彫刻が彫られ、華麗な意匠の金色の金具が施されている。

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幣殿と本殿

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本殿

 長田神社の社殿は、国登録有形文化財に指定されている。その他、境内に複数の末社があるが、これらも国登録有形文化財となっている。

 昭和初期の神社建築の名作と見なされたのだろう。

 また、本殿を囲む塀の中に、弘安九年(1286年)の銘を持つ石灯篭がある。長田神社にあるものの中で、最も古いものである。兵庫県指定文化財である。

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弘安九年の石灯篭

 長田神社には、その他に、南北朝時代に制作された黒漆金銅装神輿がある。全面に黒漆を施し、金銅の金具で鳳凰を象っている。国指定重要文化財である。

 また南北朝時代に奉納された太刀二振りも所蔵しているという。

 これらの神宝は、宝物館に収蔵されていることだろう。

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宝物館

 長田神社本殿の北側には、楠宮稲荷社という神社がある。

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楠宮稲荷社

 稲荷社の背後に、御神木の立派な楠が生えている。瀬戸内海を泳ぐ赤鱏(あかえい)が苅藻川を遡り、この御神木に化身したとされている。

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御神木の楠

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赤鱏の絵馬

 赤鱏を断って願を掛けると、願いが叶うと信仰されている。

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楠宮稲荷社

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 エイにゆかりのある神社は珍しい。

 長田神社の境内には、神戸市指定天然記念物の、「長田神社クスノキ」が生えている。

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長田神社クスノキ

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 巨大な二つの幹が並び立って、地表付近では根が絡み合い、なかなかの偉観である。

 長田神社には、神社には珍しい追儺式が伝承されている。通常の追儺式は、立春のころに災いをなす鬼を追い払うために行われるが、長田神社の鬼は神の使いで、災いを追い払ってくれる鬼であるそうだ。

 現在の神戸市長田区は、神戸の下町として住宅が密集し、人口密度も高いが、江戸時代までの長田は、ほとんど人の住まない農村地帯だったろう。

 そのころは、長田神社の氏子の数も少なかったものと思われる。長田神社周囲は、明治以降急激に開発され、一挙に市街地の中の神社になった。

 急速な都市化や空襲、震災を経験した長田神社の神様は、今どんな感想をお持ちだろう。

 

金剛山宝満寺 源平勇士の墓

 神戸市長田区東尻池町2丁目にある金剛山宝満寺は、臨済宗の寺院である。

 寺伝によれば、大同三年(808年)に当地を訪れた弘法大師空海が開山したという。

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金剛山宝満寺

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 当初は、現在の神戸市兵庫区和田山通の辺りに寺があったとされるが、治承四年(1180年)に平清盛が福原内裏を築造する際に、現在地に移されたという。

 寿永三年(1184年)の一の谷の合戦で、伽藍の大部分が焼失したが、文永三年(1266年)に亀山天皇の勅命で、円明国師が禅寺として再建したそうだ。

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客殿

 天正七年(1579年)には、信長の武将荒木村重により寺領を没収され、伽藍は焼き討ちに遭った。寺は衰退したが、細々と存続した。

 昭和20年6月5日の米軍による空襲で、伽藍は再び焼亡する。

 この時、寺宝の木造大日如来坐像は、枯れ井戸に隠されて無事であった。

 平成7年の阪神淡路大震災でも、伽藍は損傷を受けたが、幸い火災は発生せず、大日如来坐像は無事だった。

 私が宝満寺を訪れた時、寺門は閉ざされ、境内に入ることが出来なかった。

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木造大日如来坐像

 寺宝の木造大日如来坐像は、国指定重要文化財である。現在非公開の仏像である。

 この像は、胎内の銘から、永仁四年(1296年)に大仏師法眼定運ら4名の仏師が制作したことが分かっている。

 内刳り前部を総金箔で、後部を総銀箔で覆って仕上げており、非常に珍しい像内荘厳の例なのだそうだ。

 鎌倉時代後期に造られたこの像が、南北朝争乱、戦国乱世や神戸大空襲、阪神淡路大震災を経て、よく現在まで生き残ったものだ。

 さて、ここから長田区五番町に行き、神戸村野工業高等学校のすぐ西側にある源平勇士の墓を訪れた。

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源平勇士の墓

 ここは、一の谷の合戦で敵味方となって戦った源平の武者の墓石が一緒に並んで祀られている珍しい場所である。

 ここには、平氏方の平知章平通盛と、源氏方の木村源吾重章、猪俣小平六の4人の墓石が祀られている。

 平知章は、生田の森を守っていた平氏方の大将で父親の平知盛を逃すため、家臣の監物太郎頼賢と共に戦い、長田区明泉寺附近で討ち死にした。

 北城戸を守っていた平通盛は、源氏方の木村源吾重章と相討ちになった。

 また、平盛俊と戦った源氏方の猪俣小平六もこの辺りで戦死した。

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平通盛の墓石

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木村源吾と猪俣小平六の墓石

 平知章の墓石は、元々明泉寺附近にあったが、享保年間に「摂津志」の著者である並河誠所が知章を孝子として顕彰するため、西国街道に近い現在地に移したという。

 平通盛、木村源吾、猪俣小平六の墓石も、西国街道沿いに建っていたが、道路拡張工事に伴い現在地に移転され、結果敵同士が並んで祀られるようになった。

 長田区四番町の、神戸村野工業高等学校の東側の路地には、知章と共に戦った監物太郎頼賢の碑が建っている。

 近寄ると、線香のいい香りがして、墓前には綺麗な花が供えられ、近隣の住民が香華を絶やさないようにしているのがよく分かった。

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監物太郎頼賢の碑

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 平知盛が息子の知章と家臣の監物太郎の3名で渚目指して落ちのびる途中、源氏の児玉党10騎が駆け寄り、知盛に組み付いた。

 知章は、知盛を討たすまじと敵兵の一人に組み付いて討ち取り、首を取って立ち上がろうとしたが、そこを周囲の敵兵に討たれた。

 監物太郎は、知章を討った敵兵の内、一人の首を取ったが、多勢に無勢、ついに討ち取られた。

 知章と監物太郎が戦う間に、知盛は逃げ延びることができた。

 監物太郎の墓も、知章の墓と同じく、戦死した明泉寺附近にあったが、並河誠所が監物太郎の忠義を称えて顕彰するため、知章の墓と共に西国街道沿いのこの地に移したという。

 思えば一の谷の合戦の後は、生田の森から一の谷のあたりまで、死屍累々たる有様だったろう。

 神戸市は日本有数の大都市であるが、その大都市が誕生する遥か昔に、ここで一族の存亡を賭けた戦いがあったことは、記憶に留めておくべきだろう。

平忠度の腕塚・胴塚

 私が「平家物語」を読んで、最も忘れがたい逸事だと思ったのは、平家の都落ちの時、平薩摩守忠度(ただのり)が、和歌の師・藤原俊成を訪れた場面である。

 平忠度は、平清盛の弟で、文武両道を達成した武将である。武芸に秀でる一方で、風流を解し、当時朝廷第一級の歌人藤原俊成に師事して和歌をものした。

 木曽義仲勢が北陸から京に迫ると、平家一門は大慌てで京都から西に逃げ出す。

 当時、俊成は勅撰和歌集の撰者に指名されていた。勅撰和歌集は、天皇が編纂を命じた和歌集だが、勅撰和歌集に自作の和歌が選ばれるということは、歌人にとって最高の栄誉であった。

 忠度は、都落ちの途中俊成の屋敷を訪れて俊成に面会し、「生涯の面目に、一首の御恩をかうむり候はばや」と、勅撰和歌集に自作の歌を一首入れてもらいたいという思いを伝え、鎧の下から自らの詠草百首を認めた巻物一巻を取り出し、俊成に渡した。

 忠度の死後、俊成は勅撰和歌集「千載集」に、読み人知らずとして、忠度の歌、

さざ波や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな 

 を選んだ。

 志賀の都は、天智天皇が琵琶湖畔に開いた都で、壬申の乱で焼亡した。万葉のころからこの滅んだ都はよく歌われたが、忠度の歌も万葉調を思わせる古えぶりである。

 琵琶湖のさざ波が届く志賀の都は滅んで荒れてしまったが、昔ながらに、長良山(志賀の都の西にある山)に山桜が咲いている、という歌意である。

 平家の世が滅んでも、相変わらず山桜は美しく咲き続けているという意味を込めて、俊成はこの歌を選んだものと思われる。

 俊成は「千載集」に忠度の和歌を多く選びたかったが、朝敵となった忠度の名前を載せることも出来なかったので、たった一首、名を伏せて読み人知らずとしてこの歌を選んだ。

 平忠度は、一の谷の合戦で壮絶な戦死を遂げた。その忠度の腕と胴を埋めた場所に建てられた塚が、神戸市長田区にある平忠度腕塚と胴塚である。

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腕塚の案内板と道標

 忠度の腕塚は、神戸市長田区駒ヶ林4丁目の細い路地の中にある。車で入って行く事は出来ない。

 路地の入口には、案内板と道標がある。そこから路地に入って行くと、「うでづか」と刻まれた石柱がある。そこを曲がって、人一人がようやく通ることが出来る道に入る。

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「うでつか」と刻まれた石柱

 すると目の前に、腕塚堂が現れる。

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腕塚堂

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 「平家物語」第八十九句「一の谷」の最初に、忠度の最後の場面が書かれている。

 忠度は、一の谷の平家の陣の大将であったが、義経の奇策により、一の谷の山手の陣が破られ、部隊は潰走した。

 源氏の武者岡部忠澄が忠度に組み付き、両者馬から落ちる。忠度は刃を岡部に向けるが、岡部の鎧が頑丈で、刺し貫くことが出来なかった。2人は砂浜で組み合って、上へ下へとなりながら転びあう。

 そこに岡部の郎党も集まって来て加勢し、忠度の右腕を斬り落とした。

 忠度は「もはやこれまで」と悟り、「しばしのけ。十念(南無阿弥陀仏の念仏)となへて斬られん」と言って岡部を左手で押しのけ、西に向って高声に念仏を唱え始めた。

 しかし、忠度が念仏を唱え終る前に、岡部は背後から忠度の首を斬り落とす。

 岡部は、自分が討ち取った武者が、さぞ名のある者だろうと思って、遺体を見てみると、鎧の高紐に一つの文が結び付けられていた。そこには、「旅宿の花」という題で、

行き暮れて 木の下かげを 宿とせば 花やこよいの あるじならまし     

という歌が忠度の名とともに書かれていた。

 もし旅の途中に日が暮れてしまって、桜の木の下蔭を宿としたなら、桜の花が今宵の宿の主になるだろうな、という歌意である。

 岡部は自分が忠度を討ち取ったことを喜んだが、源氏方は武芸と歌道に秀でた忠度の死を惜しみ、嘆き悲しんだという。

 腕塚堂は、最初に斬り落とされた忠度の腕を埋めた場所とされている。腕塚堂の前には、石造十三重塔が建っている。

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十三重塔

 腕塚堂を覗くと、薩摩守忠度の位牌が安置されていた。

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忠度の位牌

 忠度没後750年の記念に、昭和8年に新調された位牌のようだ。

 腕塚堂から西に約300メートルほど行った、神戸市長田区野田町8丁目に、平忠度の胴塚がある。ここが、忠度が最後に討ち取られた場所だろう。

 忠度は、右腕を斬り落とされた後も、なお300メートル西に走ったのだろうか。

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平忠度胴塚

 胴塚の説明板に、平家一門の系図が書かれ、一の谷で討ち死にした者の名が赤字で書いてあった。

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平家一門の系図

 一門から実に10人の戦死者を出している。一の谷の合戦での敗北が、平家にとっていかに壊滅的な敗北であったかが分かる。

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忠度の墓石

 「平家物語」には、後世によく思い返される名場面があるが、忠度と俊成の別れの場面や、忠度の最後の場面はあまり注目されていない。これは惜しいことである。

 忠度の和歌を読むと、日本人の死生観と日本の風土が、歌という結び目を通じて深く絡み合っているのがよく分かる。

 人の世の移り変わりに関わらず、今年も桜は咲くのだ。

北向八幡神社 那須与一墓所

 妙法寺から南東に数百メートル車を走らせると、道を挟んで北向八幡神社那須与一墓所が向い合せで建っている。

 地名で言うと、ここもまだ神戸市須磨区妙法寺になる。

 那須与一は、下野国出身の武者で、源平合戦の折に、源義経軍に従軍した弓の名手として知られる。

 屋島の合戦の際に、平家側から出てきた船上の扇の的を、与一が見事に射抜いた話は、あまりにも有名である。

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北向八幡神社の鳥居

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北向八幡神社への階段

 北向八幡神社は、その名のとおり、社殿が北に向いている。北向きの社殿の神社に参拝するのは、兵庫県宍粟市一宮町の伊和神社以来である。

 祭神は、八幡大御神だが、北を向いているところを見ると、出雲系の神を祭っていた時期もあったのではないか。出雲に敬意を表して北向きに建てられたという社伝もある。

 この神社は、地元民から飛ぶ鳥も社の上を避けて飛ぶほど神威があると言われており、それを聞きつけた義経が、寿永三年(1184年)の一の谷の合戦の前に、那須与一に戦勝祈願の代参をさせたと言われている。

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北向八幡神社

 義経は、寿永三年二月七日未明に、多井畑厄除八幡宮を参拝し、その後一の谷に向ったとされる。多井畑厄除八幡宮は、昨年11月27日の当ブログ記事「多井畑厄除八幡宮」で紹介した。

 また、昨年1月26日の当ブログ記事「三草山」で紹介したが、義経軍は、その前に兵庫県加東市の三草山の平家の陣を攻略している。

 三草山から南下した義経軍は、一の谷の平家の陣の背後に回る前に、多井畑厄除八幡宮と北向八幡神社に参拝して戦勝祈願したのだろう。

 北向八幡宮の横には、地元民が那須与一を祀った那須神社がある。

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那須神社

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 また、北向八幡神社那須神社の間には、建武四年(1337年)に建立された石造笠塔婆がある。

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石造笠塔婆

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 この石造笠塔婆は、六甲山系の淡紅花崗岩で出来ており、正面に彫られているのは、像の形からして定印阿弥陀如来坐像と言われている。

 しかし地元ではこの像は薬師如来と見なされており、「いぼ薬師さん」と呼ばれている。

 那須与一は、数々の戦功を挙げたことから、那須家の十一男でありながら、源頼朝より那須家の惣領になることを許され、家督を継いだと言われている。

 与一は、北向八幡神社に御礼参りに訪れ、そのままこの地で亡くなったという伝承がある。

 那須与一墓所とされる石造五輪塔が、北向八幡神社の道路を挟んだ向かい側にある。

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那須与一墓所

 階段を登っていくと、廟所の建物がある。

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那須与一墓所

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 廟所の中を覗くと、奥に石造五輪塔が祀られているのが見える。

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那須与一の墓とされる石造五輪塔

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 この那須与一墓所を参拝すると、年老いても人様から下の世話にならないとされているそうだ。

 那須与一墓所は、京都にもあり、ここで亡くなったという伝承が本当かどうかは分からない。

 「平家物語」によれば、与一は源平合戦のころは18、9歳だったとされている。

 与一は若くして亡くなったそうだ。だが戦が終って一段落してから、与一が御礼参りにこの地を訪れたことはありそうなことである。

 真相は闇の中だが、弓の腕前だけで日本各地に伝説を残した那須与一のことを考えると、卓越した特殊技能は、それだけで歴史に波紋を広げるようである。

車大歳神社 妙法寺

 私が住む兵庫県には、現在コロナ特措法に基づく緊急事態宣言が発令されている。

 昨年もそうだったが、基本的に緊急事態宣言発令中は、不要不急の外出の際たるものである私の史跡巡りは自粛することにしている。

 兵庫県に緊急事態宣言が発令される直前の今年1月11日に、神戸市須磨区、長田区、兵庫区の史跡巡りをした。しばらくはこの日に巡った史跡を紹介したい。

 まず訪れたのは、神戸市須磨区車松ヶ原にある車大歳神社である。

 社伝によれば、車大歳神社の創建は大化二年(646年)で、祭神は須佐之男命の子息の大歳御祖(おおとしみおや)神である。

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車大歳神社

 車大歳神社は、神戸市須磨区の車と言う集落の奥にある。車も通れないような道を歩いて行った。

 この神社は、国指定重要無形民俗文化財の翁舞を伝承する神社である。

 社頭には、金網に囲まれて保護された、享保四年(1719年)の銘のある灯籠があった。

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享保四年の銘のある石灯篭

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 翁舞は、鎌倉時代末期から演じられた猿楽の演目の一つで、翁の面をつけた人物が神前で舞う神事である。

 車大歳神社の翁舞神事は、毎年1月14日に、車大歳神社の舞殿で行われる。

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舞殿

 現在の一般的な翁舞は、「露払い」「翁」「三番叟」の三部で構成されているが、車大歳神社の翁舞は、この後に「父尉」(ちちのじょう)が付加された四部構成になっている。

 「父尉」は、室町時代中期には翁舞から外されてしまったそうだ。車大歳神社の翁舞は、南北朝期以前の古式を残した貴重な神事であるとのことである。

 神社では、「翁」「三番叟」「父尉」の舞に用いられる三面を御神体として祀っている。

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三番叟

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父尉

 車大歳神社の翁舞の神事がいつから行われているかは分らないが、文久二年(1862年)の台本が残されていることから、少なくとも江戸時代末期には行われていたようだ。

 本殿には、その三面の翁の面が祀られている。

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本殿

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 車大歳神社の翁舞は、長い歴史の中で幾度か中断されたが、地元の人達の熱意で何度も復活し、今は車大歳神社翁舞保存会が伝承している。

 伝承することは大変だろうが、古態を残したこの神事には、いつまでも続いてほしいものだ。

 さて、車大歳神社から南下し、神戸市須磨区妙法寺にある真言宗の寺院、妙法寺を訪れた。

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妙法寺の石柱

 妙法寺には、国指定重要文化財毘沙門天立像がある。

 戦前の文化財制度では、現在の重要文化財級の文化財も国宝に指定されていた。妙法寺毘沙門天立像も、戦前は国宝であった。

 なので、妙法寺の参道入口に、「国宝毘沙門天妙法寺」と刻んだ昭和初期の石柱が建っている。

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妙法寺

 妙法寺は、寺伝によると、天平十年(738年)に聖武天皇の勅願により建てられたという。

 神護景雲二年(768年)と書かれた一切経84巻が保存されていることから、古くからあった寺であることは間違いなさそうだ。

 最盛期には、37坊の七堂伽藍を備えた大寺であったようだ。

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本堂

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 妙法寺は、平清盛福原京に遷都した際、平安京の乾の方角にある鞍馬寺と同じく、都の乾の方角にあったことから、平家から王城鎮護の霊場として新鞍馬という称号を与えられ、寺領千石を寄進された。

 しかし、南北朝時代には、足利尊氏が敗北して西国に落ちのびた際、高師直の兵火により全焼してしまった。

 御本尊の毘沙門天立像は、平安時代末期にクス材で作られたものである。ひょっとしたら、平家が妙法寺を新鞍馬とした際に奉納された像なのかも知れない。

 また、境内には、応安三年(1370年)に浄照という僧侶により建立された宝篋印塔がある。

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石造宝篋印塔

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応安三年の銘

 650年前の宝篋印塔だが、各部が綺麗に残っている。兵庫県指定文化財である。

 この宝篋印塔は、元々は字田中の路傍にあったものだが、道路拡張工事に伴い妙法寺境内に移された。

 妙法寺には、毎年1月3日に行われる追儺式も伝わっている。

 現在の神戸市須磨区妙法寺周辺は、神戸市営地下鉄妙法寺駅を中心に住宅街として開けているが、昔は山に挟まれた未舗装の三木街道が通る人気のほとんどない土地だったろう。

 車大歳神社と妙法寺を訪れて、江戸時代以前の静かな街道沿いの車村や妙法寺村の佇まいを心に思い浮かべた。

 

御太刀山妙勝寺

 植村文楽軒の供養塔のある勝福寺から南下し、淡路市釜口にある法華宗の寺院、妙勝寺を訪れる。

 ここは、足利尊氏ゆかりの寺である。

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妙勝寺

 足利尊氏が京都周辺での戦いに敗れ、再起のために一度九州に落ちる途中、淡路島に立ち寄った。

 尊氏は、「妙勝」という名を持つこの寺に立ち寄って戦勝を祈願した。

 寺院正面の脇には、その時に尊氏が詠んだとされる歌を刻んだ碑がある。

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尊氏の歌碑

 「今むかふ 方はあかしの浦ながら 未だ晴れやらぬ わが思ひかな」という歌である。

 中央で敗北して、西国に落ちていく尊氏だが、「まだ負けていないぞ」という気概を感じさせる歌だ。

 尊氏は九州で勢力を回復して、大軍を率いて上洛した。湊川の戦い楠木正成南朝勢を打ち破り、京都に入って足利幕府を開いた。

 勝った尊氏は妙勝寺を祈願所とし、寺領として釜口荘を寄進した。

 尊氏は、延文二年(1357年)に、妙勝寺に天下静謐の祈祷を命じた。寺には、その際に尊氏が認めた足利尊氏御判御教書が残されている。

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妙勝寺境内

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妙勝寺本堂

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本堂蟇股

 妙勝寺は淡路島内の法華宗の本山的位置づけの寺院で、本堂も立派なものである。18世紀初期の建築と言われている。

 妙勝寺の墓地には、天文、永禄、天正、慶長という、戦国時代真っ只中の時代の銘のある石造品が展示されている。

 淡路の他の寺院で、これだけ古い石造品を数多く有する寺院はないらしい。

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妙勝寺の石造品

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 一石五輪塔が多いが、中には変形したものもある。通常の五輪塔は、水輪部(下から二番目の部分)が球形であるが、この中には方形のものがある。なかなか珍しい。

 16世紀は日本中が戦乱の坩堝にあった時代で、ここ淡路でも数々の戦いがあった。それらの戦いの中で命を落とした武士を供養するために造られたものだろう。

 妙勝寺の墓地には、兵庫県指定の天然記念物である大くすの木がある。

 枝が大きく張り出した、まことに見事な大くすであった。

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妙勝寺の大くすの木

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 見事な巨木に出会うと、いつも畏敬の念に打たれる。

 さて、妙勝寺は、このように足利氏とゆかりが深く、足利氏の家紋である「丸に二つ引き」を寺紋としている。

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客殿

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丸に二つ引きの寺紋

 客殿の前には、俳人髙田蝶衣(ちょうい)の句碑がある。

 蝶衣は、明治19年に妙勝寺の近くで生まれた。

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髙田蝶衣の句碑

 丸い石に、「海のある 国うれしさよ 初日の出」という句が刻まれている。めでたい語感の句だ。
 妙勝寺は高台にあり、東に広がる大阪湾を見晴らせる。

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妙勝寺から東を望む

 妙勝寺の東側には、珍百景などで紹介されたことがある、高さ100メートルの観音像が立っている。蝶衣が生きた頃にはなかったものだ。
 私は海岸線が朝日に向かう地域に住んだことがない。海の方角から日が昇るというのは、確かに人を嬉しい気持にさせるように思う。

 妙勝寺には、兵庫県指定文化財の妙勝寺庭園がある。江戸時代初期に作られた池泉観賞式庭園で、淡路島最古の庭園である。

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妙勝寺庭園入口

 石で築かれた滝と、鶴島、亀島という二つの島が築かれた蓬莱式池泉がある。周囲を瓦葺の渡り廊下が巡っている。

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妙勝寺庭園

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 石は人を静かな気持ちにさせる。
 妙勝寺から出て、南東側を見ると、水平線上に遠く和泉の山々や友ヶ島などが見えた。

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和泉の方角

 当ブログの史跡巡りが和泉に到達するのは、数年後のことだろうが、いつか向う側から淡路島を眺めることがあるだろう。