村上帝社 関守稲荷神社

 神戸市須磨区須磨浦通4丁目にある村上帝社は、「天暦の治」と呼ばれる天皇親政を布いて、国風文化の黄金期を招来した第62代村上天皇を祀る神社である。

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村上帝社

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赤鳥居脇の「村上帝社琵琶達人師長」の石碑

 天暦年間は、西暦947年から957年までの間である。

 この神社のいわれはこうである。

 平安時代末期の琵琶の名手だった太政大臣藤原師長(1132~1192年)は、更に琵琶の奥義を極めたいと思い、琵琶の本場中国に渡ろうと考え、須磨までやってきた。

 そしてこの地で汐汲みの老夫婦の家に一泊した。そこで老夫婦が奏でた琵琶の秘曲「越天楽」の神技に感じ入った師長は、日本も捨てたものではないと思い直し、中国行を思いとどまった。

 実はこの老夫婦は、琵琶の名器絃上の所持者村上天皇と梨壺の女御の精霊であった。村上帝は、龍神を呼んでもう一つの琵琶の名器獅子丸を師長に授けた。

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村上帝社

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 これは謡曲「玄象」(絃上)のストーリーである。なので歴史的実話とは言えない。

 伝説では、師長はこの地に獅子丸を埋めたという。かつて村上帝社の脇には琵琶塚と呼ばれた琵琶の形に似た前方後円墳があったらしい。

 今は琵琶塚のあったとされる場所は、山陽電鉄の線路に二分され、見る影もない。線路北側に琵琶塚と刻まれた石碑が建っているのみである。

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かつての琵琶塚の跡か

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琵琶塚の石碑

 いつしか、謡曲「玄象」の伝承地とされたこの地に、村上天皇が祀られるようになった。

 さて、この村上帝社から北にしばらく歩くと、須磨の関屋跡の石碑が立つ関守稲荷神社がある。地名で言えば、須磨区関守町1丁目である。

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関守稲荷神社

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 須磨の地には、播磨と摂津の間の関所である須磨の関所が置かれていた。この関守稲荷神社は、須磨の関の守護神として祀られてきた社である。

 境内には、「小倉百人一首」にも入っている源兼昌の歌「淡路島 かよふ千鳥の 鳴くこゑに いく夜寝覚めぬ 須磨の関守」を刻んだ歌碑が建っている。

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源兼昌の歌碑

 波の音と風の音と千鳥の鳴き声しか聞こえなかった、昔の須磨の関屋の物寂しい夜が思い浮かぶ。

 境内には、他に藤原俊成藤原定家の須磨の関にちなむ歌碑もある。

 須磨の関屋がどこにあったかは、今となっては分からないが、関守稲荷神社の境内には、須磨の関屋跡を示す石碑がある。

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須磨の関屋跡碑

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 この石碑の正面には「長田宮」と刻まれ、側面には「川東左右関屋跡」と刻まれている。

 長田宮は、神戸市長田区にある現在の長田神社のことを指す。

 この石碑は、元から関守稲荷神社にあったものではなく、明治初年に須磨区須磨寺町にある現光寺の付近の地中から見つかり、阪神淡路大震災後にここに移転したものだという。

 現光寺の西側を通る南北道路は、かつて千森川という川であった。今は千森川は道路の下を流れる暗渠となった。

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現光寺と西側の南北道

 千森川と旧西国街道が交差する角に、須磨の関屋跡碑があったようだ。江戸時代には、現光寺周辺が須磨の関屋の跡と認識されていたのだろう。

 ところで現光寺は、「源氏物語」で光源氏が須磨に流された時に詫び住まいした跡と見なされてきた。俗に「源氏寺」とも呼ばれてきた。

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源氏寺の碑

 現光寺前に建つ「源氏寺」の石碑の裏には、「源氏物語」須磨の巻の、

おはすべき所は行平中納言(ゆきひらちゅうなごん)の藻潮(もしほ)たれつつわびける家居(いえい)近きわたりなりけり 海面(うみづら)はやや入りてあはれにすごげなる山なかなり

という一節が刻まれている。

 「源氏物語」が書かれたころは、海が山際まで迫った、寂しげな山中だったようだ。

 行平中納言は、三十六歌仙の一人、在原行平のことで、須磨の地で詫び住まいをしたと伝えられる人物である。

 伝説では、紫式部は近江の石山寺で美しい月を眺めて、「源氏物語」の須磨の巻の構想を練り、物語の執筆を始めたとされている。

 紫式部が須磨の地を訪れたことがあるのかは分からぬが、行平が須磨で蟄居して名月を眺めた逸事に着想を得て、光源氏が須磨にて詫び住まいをした場面を書き始めたのではないか。

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現光寺本堂

 須磨は、畿内の西端の地である。ここから一歩西に出れば、鄙の地であった。

 紫式部は、光源氏が詫び住まいをする場所として、ぎりぎり畿内で、海上に名月が浮かぶ須磨を選んだ。

 今は大都市神戸の一角で、住宅が櫛比する須磨も、昔は海が山際まで迫り、砂浜に苫屋がまばらに建つだけの寂しい場所だったのだろう。

 そんな頃の須磨の海の眺めと沖合に浮かぶ名月を空想した。

安徳宮

 神戸市須磨区一ノ谷2丁目に、安徳天皇の内裏跡伝承地がある。

 そこは住宅街の中の狭い一角だが、安徳天皇を御祭神として祀る安徳宮と、宗清稲荷社と呼ばれる小さなお稲荷さんが建っている。

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安徳宮

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安徳宮と宗清稲荷社

 写真正面の社が、幼帝安徳天皇を祀る安徳宮であり、その右後ろの小さい祠が宗清稲荷社である。

 第81代安徳天皇は、父高倉天皇、母建礼門院徳子の子である。建礼門院徳子は、平清盛の娘である。

 平家は、天皇外戚となることで権勢を増した。安徳天皇は、治承四年(1180年)に2歳で即位した。

 寿永二年(1183年)に源義仲が入京すると、平家は安徳天皇を擁して都落ちした。

 そして、一時一ノ谷のこの場所に内裏を置いたと伝えられる。

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安徳帝内裏跡伝説地の石碑

 安徳宮の前に二基の灯籠が奉納されている。この灯籠は、アメリカの大富豪モルガン家の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンに見初められて、明治37年に結婚した、京都の芸妓お雪が奉納した灯籠である。

 お雪は、本名は加藤ユキと言った。当時世間ではモルガンお雪と呼ばれたらしい。

 お雪は、この須磨に住んでいた時期があったようだ。

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灯籠に刻まれたお雪と母の名

 二基の灯籠のうち一基には、明治44年9月10日という日付が刻まれ、もう一基には、加藤コト、モルガンユキと、お雪と母コトの名が刻まれている。

 お雪は、この社への信仰心が篤かったようだ。安徳宮と宗清稲荷社の前で、何度も手を合わせたことだろう。

 お雪は34歳で夫と死別した。晩年は戦後の日本でひっそりと過ごしたようだ。

 安徳宮の横には、「真理胡弁財天」と刻まれた石が祀られている。

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真理胡弁財天

 真理胡弁財天は、龍神であるらしい。

 安徳帝は、壇之浦で平家が源氏に敗れた際、祖母の二位の尼に抱かれて入水した。

 海に入る前、二位の尼は、幼い安徳帝を慰めるように、「海の底にも都はありますよ」と言ったという。

 海底の都は龍宮であるが、龍宮の主は龍神である。そのため龍神である真理胡弁財天が、安徳帝の守護神としてここに祀られているのだという。

 さて、安徳宮の脇には、幕末に第14代征夷大将軍徳川家茂に嫁した皇女和宮銅像が安置されている。

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皇女和宮銅像

 皇女和宮は、6歳で有栖川熾仁親王の婚約者となったが、公武合体策を進める幕府の強い要請で、熾仁親王との婚約を破棄し、家茂に嫁した。

 和宮は、夫家茂の死後も徳川家の存続のために尽力したが、皮肉にも徳川幕府を武力討伐する東征大総督に就任したのは、和宮の元婚約者だった有栖川熾仁親王だった。

 和宮は、江戸城総攻撃を計画していた熾仁親王に、戦いを避けるよう嘆願したという。

 戦前には、和宮は国家と徳川家のために我が身を犠牲にした女性の鑑として尊崇され、女子教育の理想像とされた。

 昭和9年、地元の有力者中村直吉は、和宮銅像を3体発注し、兵庫県立第一神戸高等女学校(現神戸高校)、兵庫県立第二神戸高等女学校(現夢野台高校)、神戸市立第二神戸高等女学校(旧須磨高校)に寄贈した。

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和宮銅像

 安徳宮にある和宮像は、その3体のうちの1体である。なぜか、平成12年に安徳宮に移されるまでは、ここから約300メートル北方の山中にある寄手墳、身方墳という五輪塔のそばに置かれていたという。

 安徳帝にしろ、モルガンお雪にしろ、和宮にしろ、数奇な生涯を送った人物である。それぞれの人物にゆかりのあるものが、何かの縁でこの地に集まり、静かに時を過ごしている。

 この場所に何だか不思議な時間が流れている様に感じた。

敦盛塚 

 神戸市の垂水区から須磨区に入ると、律令制の行政単位で言う摂津国に入ったことになる。

 摂津は畿内のなかの一国である。畿内は言うまでもなく、山城、大和、摂津、和泉、河内の五カ国である。これから日本の歴史上、長らく「首都圏」だった地域の史跡を巡ることになる。

 須磨区垂水区の間に、鉢伏山の急斜面から瀬戸内海に流れ落ちる境川という川が流れている。 

 この川が摂津と播磨の国境である。

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摂津、播磨の国境

 現在、境川は暗渠になっていて、地上から視認できない。上の写真の左側のフェンスの向うに、わずかに砂防ダムが見えるが、ここが元々境川が流れていたあたりである。

 須磨区と書かれた標識が、昔の国境を示している。

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摂津、播磨の国境から海を望む

 国道2号線の摂津、播磨の国境付近から南を望むと、JRの線路の向うに海が広がる。

 写真右側に見えるのは淡路島である。写真左側に、線路の下を潜って海に出る境川の河口が見える。

 ここから500メートルほど東に歩くと、国道2号線の北側に敦盛塚が見えてくる。

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史跡敦盛塚

 この付近は、源平の争乱の際に、一の谷の合戦があった場所として知られている。

 ここに祀られている平敦盛(あつもり)は、平清盛の弟・経盛の末子であった。

 寿永三年(1184年)2月7日の一の谷の合戦で、義経鵯越(ひよどりごえ)の奇策により、須磨海岸に陣を張っていた平氏の軍は壊滅する。

 逃げ場を失った平氏の武者たちは、舟に乗って撤退しようとする。

 生年17歳の敦盛も騎馬のまま海に入り、沖合の味方の舟に向かっていたが、源氏の武者、熊谷直実がそれを見つけた。

 直実は、手柄になるような敵を探していたが、敦盛の立派な鎧兜と馬を見て、良い敵だと思い、「敵に背中を見せるのは、卑怯であろう」と扇をあげて呼びかけた。

 敦盛は呼びかけに応え、直実のところに戻って来た。波打ち際で両者組み合いとなるが、直実が敦盛を押さえつける。

 「平家物語」ではこの場面をこう書いている。

左右の膝にて敵(かたき)が鎧の袖をむずと押さへ、「首を掻かん」と兜を取つておしのけ見れば、いまだ十六七と見えたる人の、まことにうつくしげなるが、薄化粧して鉄漿(かね)つけたり。 

  直実は、自分が討ち取ろうとした敵が、16、7歳の、薄化粧をしてお歯黒をつけた美少年であることに驚き、さぞ身分の高い武者だと思った。そして、同じ年ごろの自分の息子のことを思い、助けようと思った。

 しかし、敦盛は直実に名乗らず、「なんぢがためには、よい敵ごさんなれ。(中略)急ぎ首を取れ」と言って、助けを拒んだ。

 直実は、自分の背後に味方が五十騎ばかり押寄せるのを見て、自分がこの若武者を逃がしても助からないと思い、敦盛の首を取る。

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敦盛塚

 首実験で、自分が討ち取った美少年が敦盛だったことを知った直実は、敦盛の遺品を添えて、敦盛の父経盛に宛てて書状を出す。そして世の無常を感じて出家する。

 敦盛と直実のエピソードは、その後能や謡曲幸若舞の演目となり、世々伝えられた。

 敦盛塚は、この平敦盛の胴が埋められた場所に建てられた供養塔とされている。

 塔の高さは約4メートルで、中世の五輪塔としては、石清水八幡宮五輪塔に次いで全国二位の大きさである。

 確かに、私が今までの史跡巡りで目にした五輪塔の中では、最大である。

 この塔は、一の谷の合戦から約100年後の弘安年間(1278~1288年)に、執権北条貞時が、平家一門の冥福を祈って建てたものという説もある。最初「あつめ塚」と呼ばれていたのが、いつしか「あつもり塚」と呼ばれるようになったという。

 この塔は、風輪、空輪(五輪塔の上の2つの部分)が一体に造られていて、江戸時代の五輪塔の先駆的様式を示しており、塔の形式からすれば、室町時代末期から安土桃山時代にかけて造られたものと推測されている。

 江戸時代に入ると、この五輪塔は、敦盛の墓として人々に知られるようになり、塚の前を通る旅人や参勤交代の大名たちも香華を手向けたという。

 須磨浦公園の東端のあたりは、一の谷の合戦で激戦地だった場所だが、そこに「戦の濱」の石碑が建っている。

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「戦の濱」の石碑

 源平の兵士が戦った浜は、今は国道2号線とJRの線路に覆われている。須磨浦公園の松林が、ようやく当時の面影を残している。 

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「戦の濱」石碑の西側

 源平の争乱は、その後の日本の運命を大きく変えた戦争だったが、文化史上においても後世に大きな影響を与えた。

 「平家物語」が日本文学史上の代表的大作であることは言を俟たないが、中世に出来た能や謡曲の演目には、「平家物語」から題材が採られたものが多い。

 源平争乱のエピソードの多くが、その後の日本人の心性の多くの部分を形成したと言える。

 歴史というものは、人の心を鼓舞するものだと言える。

明延鉱山

 兵庫県養父市大屋町明延(あけのべ)には、かつて明延鉱山と呼ばれる鉱山があった。

 明延から採れた銅は、天平時代に東大寺の大仏を鋳造する際に奉献されたとも伝えられている。

 明延鉱山は、平安時代初期の大同年間(806~810年)に採掘が始まったとされ、明治初年に官営の鉱山となり、明治29年に三菱合資会社に払い下げられた。

 明治42年に錫の鉱脈が発見されると、一時は日本から産出される錫の90%を生産するまでになる。

 大正5年に、明延鉱業として独立した。大正8年に神子畑選鉱場が出来ると、昭和4年には、そこまで鉱石を運ぶためのトロッコ列車が開通した。

 神子畑選鉱場跡の資料館に、明延鉱山の作業場のジオラマが展示されていた。

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明延鉱山のジオラマ

 明延鉱山で採掘された鉱石は、明延の選鉱場である程度破砕された後、一円電車と呼ばれたトロッコ列車で6キロメートル離れた神子畑選鉱場まで運ばれた。

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トロッコ列車ジオラマ

 明延鉱山は、昭和62年に閉山した。

 まだ有力な鉱脈が残ったままだったが、プラザ合意後急激に円高が進み、外国産の安価な鉱物に対抗できなくなり、閉山に追いやられた。

 明延鉱山の選鉱場のあった場所に行ってみようと思ったが、立入禁止になっているので諦めた。

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明延鉱山選鉱場跡への道

 明延の町には、鉱山の町として賑わっていたころの建物が少しだけ残っている。その内の一つが、第一浴場の建物である。

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第一浴場

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 明延地区には、鉱山労働者や家族のための共同浴場が6つあって、入浴料は無料だったようだ。鉱山で一日働いて汗と埃まみれになった作業員が、この浴場で同僚と風呂に入って、色んなことを語り合ったことだろう。

 第一浴場の建物は開いていなかったが、窓から中を覗いてみると、写真などの資料を展示しているようだった。

 第一浴場の前には、明延鉱山の独身寮だった明和寮の跡地がある。

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明和寮跡地

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 今は住む人も少なくなったこの辺りも、鉱山が栄えていたころは、夕方など人でごった返していたことだろう。

 明延地区には、鉱山の歴史資料を展示する明延鉱山学習館がある。

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明延鉱山学習館

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 私が訪れたのは月曜日で、鉱山学習館は閉館していた。

 学習館の回りには、一円電車の様々な車体が展示してあった。

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鉱石を運ぶ列車

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客車赤金号

 明延鉱山で採れた鉱石を神子畑選鉱場まで何往復も運んだ列車だ。

 明延鉱山の坑道跡は、明延鉱山探検坑道として、予約制で公開されている。

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明延鉱山探検坑道

 日曜日は、予約なしで「探検」できるようだ。私は事前に予約せずに来たから、中に入ることは出来なかった。

 この坑道内に入った方がネット上に公開した写真などを見ると、なかなか面白そうな坑道であった。

 時代と共に産業は消長するものだが、有力な鉱脈を残したまま閉山したこの鉱山が、再び復活する時がいつか来るのではないかと想像してみたりした。

神子畑選鉱場跡 後編

 神子畑選鉱場跡の前の広場には、通称明延一円電車と呼ばれた電車が展示されている。

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明延一円電車

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一円電車の客車

 養父郡の明延鉱山と神子畑選鉱場との間を、鉱石と乗客を運ぶために走った電車である。

 遊園地の乗り物の電車と大差ないような小さな電車である。一度乗ってみたかった。

 戦後間もないころから、廃線となった昭和62年まで、旅客運賃が1円に固定されていたことから、一円電車と呼ばれた。かつて線路のあった場所には、今は立ち入ることは出来ない。

 神子畑選鉱場跡には、神子畑選鉱場や明延鉱山のジオラマや、鉱山ゆかりの品々を展示した資料館がある。

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資料館

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神子畑選鉱場のジオラマ

 このジオラマの神子畑選鉱場の上を通っているのが、一円電車である。あんな高いところを、先ほど紹介した小さな車体が走っていたのである。乗るだけでわくわくしそうだ。
 ジオラマの左下には、職員宿舎や共同浴場、小学校がある。神子畑選鉱場が稼働していた時代には、工場全体が一つの町になっていたのだ。

 さて、ジオラマ写真の右下にある旧神子畑鉱山事務所が、現在も残っている。

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旧神子畑鉱山事務所

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 旧神子畑鉱山事務所は、明治5年(1872年)に、生野鉱山の外国人宿舎として建てられた。

 神子畑鉱山の開発に伴い、明治20年(1887年)にこの地に移設された。

 この建物は、フランス人レスカスと日本人加藤正矩が設計したと記録されている。レスカスは、明治村に移築保存されている西郷従道邸の設計者でもある。

 明治初期に建てられたコロニアル・スタイルの特徴を良く残しており、正方形の建物の中心を廊下が真っすぐ通り、廊下の左右に二部屋づつ部屋が造られ、建物の四方はベランダが囲っている。窓とドアを開ければ、風が建物内を吹き抜ける。

 瀟洒で開放的な建物だ。

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旧神子畑鉱山事務所

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玄関と中央の廊下

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暖炉のある部屋

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 こういう真四角で左右対称の家に住んでみたいというのが昔からの夢である。

 この建物には、生野鉱山で働いたフランス人技師ムーセが住んでいたのではないかと伝えられており、そのためムーセ旧居とも呼ばれているが、実際に住んでいたかはよく分かっていない。

 館内には、昨日の記事で紹介した神子畑選鉱場のかつての写真や模型などが展示されている。

 ここから西に歩くと、廃校となった神子畑小学校の建物がある。

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神子畑小学校跡

 この廃校の建物も、いつ解体されるか分からない。神子畑小学校は、昭和47年に閉校になったようだ。最後の卒業生を送り出してから、もう48年経ったわけだ。

 私の母校の中学校も廃校となった。小学校も廃校の危機にある。自分が学び育った学び舎というものは、懐かしく、思い出深いものだ。

 神子畑選鉱場の廃業と共に、ここで仕事をした人と家族の生活も一変しただろう。人々の生活様式の変化や産業の消長と共に、街や村も拡大したり消滅したりする。寂しいことだが、これも歴史の一面である。

 

神子畑選鉱場跡 前編

 明治11年1878年)に、現在の兵庫県朝来市佐嚢(さのう)の地で鉱山が発見された。神子畑(みこはた)鉱山である。神子畑鉱山からは、良質な銀が採掘された。

 明治14年に神子畑鉱山が本格開鉱してから、採掘された銀を生野まで運ぶための馬車道が整備された。

 明治9年には、生野ー飾磨港間に、生野銀山から産出された鉱物資源を運ぶための馬車道が開通していた。現在「銀の馬車道」と呼ばれている道である。神子畑ー生野間の馬車道は、この銀の馬車道と接続した。

 神子畑ー生野間の馬車道は、途中で5つの川を越えなければならなかった。明治18年に、この川越のために5つの鋳鉄製の橋が架けられた。

 現在は、5つの鋳鉄橋のうち、2つが現存している。羽渕鋳鉄橋と神子畑鋳鉄橋である。

 羽渕鋳鉄橋は、朝来市生野町羽渕の、山口護国神社前の地に移設保存されている。

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羽渕鋳鉄橋

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 羽渕鋳鉄橋は、明治18年ころに田路川に架橋されたものである。二連アーチの美しい鋳鉄橋であるが、一度洪水で流されたため、現在地に移設後、修復保存されることとなった。

 羽渕鋳鉄橋は、兵庫県指定文化財である。

 羽渕鋳鉄橋のすぐ傍の国道312号線羽渕交差点を西進し、国道429号線を西へ進んでいくと、道沿いにもう一つの現存する鋳鉄橋、神子畑鋳鉄橋が見えてくる。

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神子畑鋳鉄橋

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 神子畑鋳鉄橋も、明治18年ころに架橋されたものだが、設計は生野鉱山を開発していたフランス人技師団がしたようだ。

 鉄製の橋としては、日本で3番目に古い橋だそうだが、全鋳鉄製の橋としては日本最古の橋である。

 神子畑鋳鉄橋は、架橋時から同じ場所にあり、日本の橋梁建築史上の貴重な資料であることから、国指定重要文化財となっている。

 神子畑鋳鉄橋から更に西に進むと、巨大な工場の廃墟のようなものが見えてくる。神子畑選鉱場跡である。

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神子畑選鉱場跡

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 神子畑鉱山は、大正6年(1917年)に採掘量の減少により閉山となった。その後、大正8年にこの地に造られたのが神子畑選鉱場である。

 神子畑選鉱場は、約6キロメートル離れた養父郡の明延鉱山で採掘され、運ばれてきた錫、銅、亜鉛を含む鉱石を、泥状になるまで破砕し、各鉱物の浮力と比重差を利用して、選別するための施設である。

 昭和時代に拡張して、東洋一の選鉱場となった。

 木と鉄骨とトタン屋根で造られた建屋は22階建てで、選鉱場の大きさは、幅110メートル、斜距離165メートル、高低差75メートルであった。

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神子畑選鉱場の写真

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 神子畑選鉱場は、昭和62年に明延鉱山が閉山となったため、役目を終えた。平成16年に建物は解体され、現在のように基礎コンクリートと階段、シックナーと呼ばれる液体中に混じる個体粒子を分離する設備が残されている。

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シックナー

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 シックナーの跡は、まるで円盤と古代の神殿が合わさったかのような独特な形をしている。

 神子畑選鉱場跡は、今は巨大なコンクリートの基礎が残るだけだが、不思議な存在感を放っている。

 工場の廃墟は、かつてそこで行われた作業を色々と想像させてくれる。

 最近、明治、大正、昭和の産業遺産も文化財として扱われるようになったが、これからの時代に、こんな存在感のある廃墟が生み出せるだろうか。

雲頂山大明寺

 生野銀山を出て、国道429号線丹波方面に向けて走る。

 生野ダムが堰き止めて出来た銀山湖の畔の道を、スイフトスポーツで疾走する。ダム湖沿いの曲がりくねったワインディングロードを、右へ左へとハンドルを切って進む。私は、ここを走って、漸くZC33Sの限界付近での挙動を掴めるようになった。

 さて、そうやって黒川ダムの近くまでやってきた。

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黒川ダム

 黒川ダムは、ロックフィル式のダムである。ロックフィル式ダムとは、岩石や土砂を積み上げて造られたダムのことだ。

 黒川ダムの表面は、ごつごつした岩で覆われている。このダムが堰き止めた水で、黒川ダム湖が出来ている。膨大な質量のある建造物だ。

 この黒川ダムのすぐ近くにあるのが、臨済宗妙心寺派の寺院、雲頂山大明寺である。地名で言えば、兵庫県朝来市生野町黒川にある。

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大明寺

 大明寺は、正平二十二年(1367年)に、月庵禅師が開基した寺院である。月庵禅師は、日本全国を歩いて、各地に禅寺を開いた僧侶である。

 月庵禅師は、黒川の地を訪れ、大明寺の西北の、今はダム湖の底に沈んでしまった渓水が丸石を巡って流れる場所で、その丸石の上に日夜坐禅を組み、草庵を作った。

 月庵禅師が坐禅したとされる坐禅石は、昭和46年に、ダム湖の底に沈むのを避けるため、大明寺の境内に移された。 

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坐禅

 当時、黒川の地には狼が出没して村人に恐れられていた。ある時、この丸石の上で坐禅をしていた月庵禅師の傍へ、口に魚の骨が刺さった老いた狼が寄って来た。禅師は狼の口に刺さった骨を抜いてやった。狼はお礼に稲穂を禅師に捧げた。その稲穂を植えると、黒川は豊作に見舞われるようになったという。

 禅師は狼にこの地を去るよう諭した。以後黒川の地で狼による被害はなくなったという。

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月庵禅師と狼の像

 大明寺の近くの観光駐車場の脇に、月庵禅師と狼の銅像が設置されていた。何ともほほえましい逸事だ。

 さて大明寺の山門を潜ると、目の前に茅葺の開山堂が聳えている。最近修復されたのか、実に美しい入母屋造りの茅葺屋根を持ったお堂であった。

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開山堂

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 この開山堂は、本堂も兼ねているようで、ご本尊の釈迦牟尼仏を祀っている。

 堂内は静けさに包まれている。禅宗寺院らしく、華美な装飾はない。

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開山堂内部

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ご本尊釈迦牟尼仏

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開山堂の柱と床

 月庵禅師に師事したのが、但馬国守護となった山名時熈(ときひろ)である。時熈は大明寺を手厚く保護した。

 開山堂の奥には、月庵禅師と時熈の木像が奉安されている。

 大明寺は、天文年中(1532~1554年)に祖堂を残して焼失する。その後荒れたままになっていたが、寛永年間(1624~1644年)に大愚禅師によって再興された。徳川家光に寺領を賜り、幕末まで寺院は存続出来た。

 現在残る開山堂と庫裏などは、江戸時代の建物だろう。

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庫裏

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 境内には、昭和61年に、彫刻家北村西望が造った遺作の聖観音立像が祀られている。北村西望102歳の作だそうだ。北村西望は、長崎平和記念像や、国会議事堂内の板垣退助翁像の作者として著名である。

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聖観音立像

 表面の箔が剥落し始めているが、見事な像である。同じく西望作の、広島の平和聖観音菩薩像に似ている。近代日本を代表する彫刻家が造った仏像が、こんな山奥の寺院にあるのである。

 人が訪れるのが稀な山奥にも、由緒のある寺社があるものだ。大明寺を訪れて、何だか宝物を見つけた気分になった。