神戸市須磨区須磨浦通4丁目にある村上帝社は、「天暦の治」と呼ばれる天皇親政を布いて、国風文化の黄金期を招来した第62代村上天皇を祀る神社である。
天暦年間は、西暦947年から957年までの間である。
この神社のいわれはこうである。
平安時代末期の琵琶の名手だった太政大臣藤原師長(1132~1192年)は、更に琵琶の奥義を極めたいと思い、琵琶の本場中国に渡ろうと考え、須磨までやってきた。
そしてこの地で汐汲みの老夫婦の家に一泊した。そこで老夫婦が奏でた琵琶の秘曲「越天楽」の神技に感じ入った師長は、日本も捨てたものではないと思い直し、中国行を思いとどまった。
実はこの老夫婦は、琵琶の名器絃上の所持者村上天皇と梨壺の女御の精霊であった。村上帝は、龍神を呼んでもう一つの琵琶の名器獅子丸を師長に授けた。
これは謡曲「玄象」(絃上)のストーリーである。なので歴史的実話とは言えない。
伝説では、師長はこの地に獅子丸を埋めたという。かつて村上帝社の脇には琵琶塚と呼ばれた琵琶の形に似た前方後円墳があったらしい。
今は琵琶塚のあったとされる場所は、山陽電鉄の線路に二分され、見る影もない。線路北側に琵琶塚と刻まれた石碑が建っているのみである。
いつしか、謡曲「玄象」の伝承地とされたこの地に、村上天皇が祀られるようになった。
さて、この村上帝社から北にしばらく歩くと、須磨の関屋跡の石碑が立つ関守稲荷神社がある。地名で言えば、須磨区関守町1丁目である。
須磨の地には、播磨と摂津の間の関所である須磨の関所が置かれていた。この関守稲荷神社は、須磨の関の守護神として祀られてきた社である。
境内には、「小倉百人一首」にも入っている源兼昌の歌「淡路島 かよふ千鳥の 鳴くこゑに いく夜寝覚めぬ 須磨の関守」を刻んだ歌碑が建っている。
波の音と風の音と千鳥の鳴き声しか聞こえなかった、昔の須磨の関屋の物寂しい夜が思い浮かぶ。
境内には、他に藤原俊成や藤原定家の須磨の関にちなむ歌碑もある。
須磨の関屋がどこにあったかは、今となっては分からないが、関守稲荷神社の境内には、須磨の関屋跡を示す石碑がある。
この石碑の正面には「長田宮」と刻まれ、側面には「川東左右関屋跡」と刻まれている。
長田宮は、神戸市長田区にある現在の長田神社のことを指す。
この石碑は、元から関守稲荷神社にあったものではなく、明治初年に須磨区須磨寺町にある現光寺の付近の地中から見つかり、阪神淡路大震災後にここに移転したものだという。
現光寺の西側を通る南北道路は、かつて千森川という川であった。今は千森川は道路の下を流れる暗渠となった。
千森川と旧西国街道が交差する角に、須磨の関屋跡碑があったようだ。江戸時代には、現光寺周辺が須磨の関屋の跡と認識されていたのだろう。
ところで現光寺は、「源氏物語」で光源氏が須磨に流された時に詫び住まいした跡と見なされてきた。俗に「源氏寺」とも呼ばれてきた。
現光寺前に建つ「源氏寺」の石碑の裏には、「源氏物語」須磨の巻の、
おはすべき所は行平中納言(ゆきひらちゅうなごん)の藻潮(もしほ)たれつつわびける家居(いえい)近きわたりなりけり 海面(うみづら)はやや入りてあはれにすごげなる山なかなり
という一節が刻まれている。
「源氏物語」が書かれたころは、海が山際まで迫った、寂しげな山中だったようだ。
行平中納言は、三十六歌仙の一人、在原行平のことで、須磨の地で詫び住まいをしたと伝えられる人物である。
伝説では、紫式部は近江の石山寺で美しい月を眺めて、「源氏物語」の須磨の巻の構想を練り、物語の執筆を始めたとされている。
紫式部が須磨の地を訪れたことがあるのかは分からぬが、行平が須磨で蟄居して名月を眺めた逸事に着想を得て、光源氏が須磨にて詫び住まいをした場面を書き始めたのではないか。
須磨は、畿内の西端の地である。ここから一歩西に出れば、鄙の地であった。
紫式部は、光源氏が詫び住まいをする場所として、ぎりぎり畿内で、海上に名月が浮かぶ須磨を選んだ。
今は大都市神戸の一角で、住宅が櫛比する須磨も、昔は海が山際まで迫り、砂浜に苫屋がまばらに建つだけの寂しい場所だったのだろう。
そんな頃の須磨の海の眺めと沖合に浮かぶ名月を空想した。