安徳宮

 神戸市須磨区一ノ谷2丁目に、安徳天皇の内裏跡伝承地がある。

 そこは住宅街の中の狭い一角だが、安徳天皇を御祭神として祀る安徳宮と、宗清稲荷社と呼ばれる小さなお稲荷さんが建っている。

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安徳宮

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安徳宮と宗清稲荷社

 写真正面の社が、幼帝安徳天皇を祀る安徳宮であり、その右後ろの小さい祠が宗清稲荷社である。

 第81代安徳天皇は、父高倉天皇、母建礼門院徳子の子である。建礼門院徳子は、平清盛の娘である。

 平家は、天皇外戚となることで権勢を増した。安徳天皇は、治承四年(1180年)に2歳で即位した。

 寿永二年(1183年)に源義仲が入京すると、平家は安徳天皇を擁して都落ちした。

 そして、一時一ノ谷のこの場所に内裏を置いたと伝えられる。

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安徳帝内裏跡伝説地の石碑

 安徳宮の前に二基の灯籠が奉納されている。この灯籠は、アメリカの大富豪モルガン家の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンに見初められて、明治37年に結婚した、京都の芸妓お雪が奉納した灯籠である。

 お雪は、本名は加藤ユキと言った。当時世間ではモルガンお雪と呼ばれたらしい。

 お雪は、この須磨に住んでいた時期があったようだ。

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灯籠に刻まれたお雪と母の名

 二基の灯籠のうち一基には、明治44年9月10日という日付が刻まれ、もう一基には、加藤コト、モルガンユキと、お雪と母コトの名が刻まれている。

 お雪は、この社への信仰心が篤かったようだ。安徳宮と宗清稲荷社の前で、何度も手を合わせたことだろう。

 お雪は34歳で夫と死別した。晩年は戦後の日本でひっそりと過ごしたようだ。

 安徳宮の横には、「真理胡弁財天」と刻まれた石が祀られている。

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真理胡弁財天

 真理胡弁財天は、龍神であるらしい。

 安徳帝は、壇之浦で平家が源氏に敗れた際、祖母の二位の尼に抱かれて入水した。

 海に入る前、二位の尼は、幼い安徳帝を慰めるように、「海の底にも都はありますよ」と言ったという。

 海底の都は龍宮であるが、龍宮の主は龍神である。そのため龍神である真理胡弁財天が、安徳帝の守護神としてここに祀られているのだという。

 さて、安徳宮の脇には、幕末に第14代征夷大将軍徳川家茂に嫁した皇女和宮銅像が安置されている。

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皇女和宮銅像

 皇女和宮は、6歳で有栖川熾仁親王の婚約者となったが、公武合体策を進める幕府の強い要請で、熾仁親王との婚約を破棄し、家茂に嫁した。

 和宮は、夫家茂の死後も徳川家の存続のために尽力したが、皮肉にも徳川幕府を武力討伐する東征大総督に就任したのは、和宮の元婚約者だった有栖川熾仁親王だった。

 和宮は、江戸城総攻撃を計画していた熾仁親王に、戦いを避けるよう嘆願したという。

 戦前には、和宮は国家と徳川家のために我が身を犠牲にした女性の鑑として尊崇され、女子教育の理想像とされた。

 昭和9年、地元の有力者中村直吉は、和宮銅像を3体を発注し、兵庫県立第一神戸高等女学校(現神戸高校)、兵庫県立第二神戸高等女学校(現夢野台高校)、神戸市立第二神戸高等女学校(旧須磨高校)に寄贈した。

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和宮銅像

 安徳宮にある和宮像は、その3体のうちの1体である。なぜか、平成12年に安徳宮に移されるまでは、ここから約300メートル北方の山中にある寄手墳、身方墳という五輪塔のそばに置かれていたという。

 安徳帝にしろ、モルガンお雪にしろ、和宮にしろ、数奇な生涯を送った人物である。それぞれの人物にゆかりのあるものが、何かの縁でこの地に集まり、静かに時を過ごしている。

 この場所に何だか不思議な時間が流れている様に感じた。