敦盛塚 

 神戸市の垂水区から須磨区に入ると、律令制の行政単位で言う摂津国に入ったことになる。

 摂津は畿内のなかの一国である。畿内は言うまでもなく、山城、大和、摂津、和泉、河内の五カ国である。これから日本の歴史上、長らく「首都圏」だった地域の史跡を巡ることになる。

 須磨区垂水区の間に、鉢伏山の急斜面から瀬戸内海に流れ落ちる境川という川が流れている。 

 この川が摂津と播磨の国境である。

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摂津、播磨の国境

 現在、境川は暗渠になっていて、地上から視認できない。上の写真の左側のフェンスの向うに、わずかに砂防ダムが見えるが、ここが元々境川が流れていたあたりである。

 須磨区と書かれた標識が、昔の国境を示している。

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摂津、播磨の国境から海を望む

 国道2号線の摂津、播磨の国境付近から南を望むと、JRの線路の向うに海が広がる。

 写真右側に見えるのは淡路島である。写真左側に、線路の下を潜って海に出る境川の河口が見える。

 ここから500メートルほど東に歩くと、国道2号線の北側に敦盛塚が見えてくる。

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史跡敦盛塚

 この付近は、源平の争乱の際に、一の谷の合戦があった場所として知られている。

 ここに祀られている平敦盛(あつもり)は、平清盛の弟・経盛の末子であった。

 寿永三年(1184年)2月7日の一の谷の合戦で、義経鵯越(ひよどりごえ)の奇策により、須磨海岸に陣を張っていた平氏の軍は壊滅する。

 逃げ場を失った平氏の武者たちは、舟に乗って撤退しようとする。

 生年17歳の敦盛も騎馬のまま海に入り、沖合の味方の舟に向かっていたが、源氏の武者、熊谷直実がそれを見つけた。

 直実は、手柄になるような敵を探していたが、敦盛の立派な鎧兜と馬を見て、良い敵だと思い、「敵に背中を見せるのは、卑怯であろう」と扇をあげて呼びかけた。

 敦盛は呼びかけに応え、直実のところに戻って来た。波打ち際で両者組み合いとなるが、直実が敦盛を押さえつける。

 「平家物語」ではこの場面をこう書いている。

左右の膝にて敵(かたき)が鎧の袖をむずと押さへ、「首を掻かん」と兜を取つておしのけ見れば、いまだ十六七と見えたる人の、まことにうつくしげなるが、薄化粧して鉄漿(かね)つけたり。 

  直実は、自分が討ち取ろうとした敵が、16、7歳の、薄化粧をしてお歯黒をつけた美少年であることに驚き、さぞ身分の高い武者だと思った。そして、同じ年ごろの自分の息子のことを思い、助けようと思った。

 しかし、敦盛は直実に名乗らず、「なんぢがためには、よい敵ごさんなれ。(中略)急ぎ首を取れ」と言って、助けを拒んだ。

 直実は、自分の背後に味方が五十騎ばかり押寄せるのを見て、自分がこの若武者を逃がしても助からないと思い、敦盛の首を取る。

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敦盛塚

 首実験で、自分が討ち取った美少年が敦盛だったことを知った直実は、敦盛の遺品を添えて、敦盛の父経盛に宛てて書状を出す。そして世の無常を感じて出家する。

 敦盛と直実のエピソードは、その後能や謡曲幸若舞の演目となり、世々伝えられた。

 敦盛塚は、この平敦盛の胴が埋められた場所に建てられた供養塔とされている。

 塔の高さは約4メートルで、中世の五輪塔としては、石清水八幡宮五輪塔に次いで全国二位の大きさである。

 確かに、私が今までの史跡巡りで目にした五輪塔の中では、最大である。

 この塔は、一の谷の合戦から約100年後の弘安年間(1278~1288年)に、執権北条貞時が、平家一門の冥福を祈って建てたものという説もある。最初「あつめ塚」と呼ばれていたのが、いつしか「あつもり塚」と呼ばれるようになったという。

 この塔は、風輪、空輪(五輪塔の上の2つの部分)が一体に造られていて、江戸時代の五輪塔の先駆的様式を示しており、塔の形式からすれば、室町時代末期から安土桃山時代にかけて造られたものと推測されている。

 江戸時代に入ると、この五輪塔は、敦盛の墓として人々に知られるようになり、塚の前を通る旅人や参勤交代の大名たちも香華を手向けたという。

 須磨浦公園の東端のあたりは、一の谷の合戦で激戦地だった場所だが、そこに「戦の濱」の石碑が建っている。

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「戦の濱」の石碑

 源平の兵士が戦った浜は、今は国道2号線とJRの線路に覆われている。須磨浦公園の松林が、ようやく当時の面影を残している。 

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「戦の濱」石碑の西側

 源平の争乱は、その後の日本の運命を大きく変えた戦争だったが、文化史上においても後世に大きな影響を与えた。

 「平家物語」が日本文学史上の代表的大作であることは言を俟たないが、中世に出来た能や謡曲の演目には、「平家物語」から題材が採られたものが多い。

 源平争乱のエピソードの多くが、その後の日本人の心性の多くの部分を形成したと言える。

 歴史というものは、人の心を鼓舞するものだと言える。